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■■■ 「古事記」解釈 [2021.9.13] ■■■
[255] 「古事記」所収歌は歌謡ではない
歌謡の話をしようとなると、たいした知識もないので、どうしても枕が必要になり、藤原定家編「小倉百人一首」を取り上げることになる。
そこらはご勘弁のほど。

百人一首一番は、所収歌で時代的に一番古い歌である。天智天皇御製とされている。・・・
  秋の田の かりほの庵の とまをあらみ
   わが衣手は 露にぬれつつ  
[「後撰集」秋中302]

この歌だが、「万葉集」所収の:詠み人知らずの歌と内容的にはなんら変わりが無い。
  秋田刈る 仮廬を作り 我が居れば
   衣手寒く 露ぞ置きにける  
[「万葉集」巻十#2174詠露:詠み人知らず]
  (以下も、繋がっているのか定かではないが、)
  秋田刈る 苫手動くなり 白露し
   置く穂田なしと 告げに来ぬらし
(一云:告げに来らしも)   [同#2176]
  秋田刈る 旅の廬りに しぐれ降り
   我が袖濡れぬ 干す人なしに
[(詠雨)#2235]
  秋田刈る 仮廬もいまだ 壊たねば
   雁が音寒し 霜も置きぬがに  
[「万葉集」巻八#1556忌部首黒麻呂歌一首]

もちろん、驚くべきことではない。
遍く知られている作品をほとんどそのまま元歌として使うのはよくあること。
その場の状況を、情緒的に表現しているとなれば、それは大いに褒められるべきことなのだから。これこそが日本の風土そのもの。

それに加え、御製とされているが、誰が元歌から引いて来たのかも定かではない。・・・
天皇の意を汲み取って詠む、お付きの代作者かも知れない。
それどころか、天智天皇とは全く無関係だった歌を、そのまま御製と呼ぶことにしただけで、一部文字の改違いは発音上の訛り的変化に過ぎないと考える人も少なくない。

もちろん、どれが正解なのかわかる訳もなく、どうでもよいが、こうした見方が生じてしまう理由には目を向けておく必要があろう。

つまり、「古事記」所収の歌もこの考え方で眺めことになる。

そうなると、「古事記」とは、歌謡的叙事詩が収録されてはいるが、それは"古代歌謡"と呼んでは拙いことになる。歌が散文に伴って記載されているだけで、正確には歌謡ではないと考えるべきということになる。
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「古事記」の歌とは、漢字表記の歌謡アンチョコから"元歌"を引いて来たものということ。そこだけは確かに歌謡の一部だが、歌謡ではないということ。

要するに、こんな流れを想定することになる。・・・
古代コミュニティ歌謡(口誦韻文+仕草)…残存していない。
  ↓
  ○"古代歌謡"アンチョコ書@1文字訓音表記
  ↓脱歌謡
朝廷公的芸能
  ├┐
  ○<散文(譚)+歌(アンチョコ部分引用)
  ││   ≒歌謡的叙事詩「古事記」
  │○<楽(奏)+舞>⇒朝廷祭祀の主流化
  ↓
社会的文芸
  ○<独立歌>≒非歌謡的抒情歌「萬葉集」
  ├┐
  │○祭祀和歌(e.g. 鬼神を感じせしめ極楽往生実現)
  ○"和歌集/家集&撰集"(社交に必須の道具としての歌)
  ├┐歌譚(短編物語による装飾)
  │○"歌物語"(創作)
  ↓
歌人文学(創作)

"古代歌謡"アンチョコ書が存在している証拠はなにも無いから、太安万侶がその書から「古事記」に引用したと書きたくなければ、太安万侶がアンチョコを書いた可能性が高いとしてもよい。「古事記」所収の歌の記述方法はまさにアンチョコ型であるからだ。(すべて単なる発音記号表記。読み間違わないよう、一文字一音の訓読みで、一意的、かつ分かり易い文字を使っている。表意文字化・暗喩的変換・好文字変換は避けている。)
ともあれ、"歌曰:"という引用記載表現で歌が紹介されていることが一大特徴。作ったとか詠ったと書いていない歌だらけ。
このことは、太安万侶は"古代歌謡"から、その一部を抜き出して"歌"として紹介していることを意味しよう。

と言っても、"古代歌謡"は残存している訳ではなく、「古事記」収録"歌"からの想像イメージでしかない訳だが。
しかし、太安万侶の描き方が秀逸なので、そのイメージはかなり生々しい。
意味不明の掛け声が入ったりする躍動感溢れ、概ね、生命の息吹を謳歌するものだった可能性が高い。それだからこそコミュニティの紐帯として、皆に愛され続けて継承されて来たと言えそう。頭で考える歌とは違い、生活に組み込まれた慣習であるから、当然であろう。もちろん、様々なバリエーションがあり、混淆もはなはだしい筈だ。

"民謡"も同じと考える現代人も多そうだが、たとえ集団で唄うことがあろうが、あくまでもそれは個人的発露の交換が土台。風俗的に似せているだけで、共同体の活動に不可欠な"歌謡"とは根本的に異なる。共同体の活動が失せれば、"歌謡"もその時点で自動消滅するだけのこと。

ここは非常に重要なところ。・・・歌謡はコミュニティ誕生から社会的に意味付けされてきたもの。一方の、歌は、風俗という意味では、限りなく社会的ではあるものの、個人的創造物に過ぎない。国家、軍歌、民謡、とはすべてイデオロギーに基づいた創作物。それを自分達のアイデンティティにすると決めたに過ぎない。従って、混淆など当たり前の"歌謡"とは違って柔軟性は無く、極めて硬直的なのが特徴。

さらに差異が際立つのが、抒情性である。
個人的創造物であれば、その情感を埋め込んだ歌が生まれるのは自然であるように、コミュニティ活動では集団での生命感謳歌が基本なので、前者は親和性があるが、後者は対立的になる景行は否めまい。
悲恋や不運に見舞われた場合、歌はその表現媒体としては適切だが、歌謡はそうはならない点に注意を払う必要があろう。古代歌謡に"可哀そう"という同情感は似合わないからで、悲恋譚で主人公が笑い者にされていてもおかしくないということ。
しかし、この抒情性よいう点では、両者には決定的な違いがある。歌は説明がなくても、鑑賞者はそこからストーリー性を読み取る必要がある。だからこそ感動を呼ぶことになる。
しかし、そのようなものが霧消しており、ほとんど読み取れないのが古代歌謡と考える必要があろう。発祥経緯や由来が忘却の彼方で、意味の分からぬ部分だらけでよいのである。ストーリーが見えるなら、それは偽作の可能性が高いことになろう。

ここまで書けば主旨がおわかりになるだろう。

「古事記」は、伝承譚をコンパクトな筋に仕上げたガイスト版だが、それを叙事詩風にまとめたということ。そして、各譚の"情緒"に合う歌謡を抜き取って埋め込んだのである。
(○○歌との割注があるが、それは元歌謡を示しているのは明らか。)
埋め込まれた瞬間、それは歌謡から歌に転化してしまう。どの歌も、各譚に合うように選ばれたにすぎず、そのシーンに合致している保証は無い。ある意味、編集という用語でも、創作活動に限りなく近い。
しかし、それでよいのである。

冒頭で、天智天皇の歌を取り上げた理由はそこ。
これこそが倭の伝統。

間違えてもらってはこまるが、譚を引き立てるために、装飾的に歌が挿入されているのではない。歌あってこそ散文体の口誦叙事詩が成立する。だからと言って、それは歌物語でもないし、説明文付歌集でもない。
換言すれば、「古事記」とは、歌謡から歌へと変わる橋渡しのような作品なのだ。
(ちなみに、国史における歌だが、本来的には不要では。挿入したかったとすれば、朝廷の威厳と文化性の高さを誇るための装飾物以外のなにものでもなかろう。従って、歌の表記文字は官僚の様々な英知を集めて決定した見栄えのよい文字になろう。)

繰り返すが、歌謡はコミュニティ活動に不可欠なもの。
従って、「古事記」では、歌謡から引用してきた歌は、葦原中国でしか存在しえない。但し、高天原でストリップが行われて神々が嗤っているから、芸能がなかった訳ではなさそうだが。

 《上巻》
作御歌歌曰:"夜久毛多都・・・"
歌曰:"夜知富許能・・・"
自内 歌曰:"夜知富許能・・・"
歌曰:"奴婆多麻能・・・"
歌曰:"夜知富許能・・・"
  如此・・・
  【此謂之 神語也】
歌曰:"阿米那流夜・・・"
  【此歌者 夷振也】
之 其 歌曰:"阿加陀麻波・・・"
歌曰:"意岐都登理・・・"
 《中巻》
歌曰:"宇陀能・・・"
之者 一時共斬 故明將打其土雲之 歌曰:"意佐加能・・・"
"・・・伊麻宇多婆余良斯" 如此 而 拔刀
歌曰:"美都美都斯・・・"
歌曰:"美都美都斯・・・"
歌曰:"加牟加是能・・・"
歌曰:"多多那米弖・・・"
白於天皇曰:"夜麻登能・・・"
答曰:"加都賀都母・・・"
思奇 歌曰:"阿米都都・・・"
爾大久米命答 歌曰:"袁登賣爾・・・"
天皇 御歌曰:"阿斯波良能・・・"
令知其御子等 歌曰:"佐韋賀波用・・・"
歌曰:"宇泥備夜麻・・・"
立山代之幣羅坂 而 歌曰:"古波夜・・・"
爾少女答曰:"吾勿言 唯爲詠耳"
---歌凝比賣命---
御歌曰:"夜都米佐須・・・"
爾其后 歌曰:"佐泥佐斯・・・"
歌曰:"邇比婆理・・・"
續御歌以 歌曰:"迦賀那倍弖・・・"
歌曰:"比佐迦多能・・・"
爾美夜受比賣 答 御歌曰:"多迦比迦流・・・"
御歌曰:"袁波理邇・・・"
思國以 歌曰:"夜麻登波・・・"
歌曰:"伊能知能・・・"
  【此歌者 思國歌也】
歌曰:"波斯祁夜斯・・・"
  【此者 片歌也】
御歌曰:"袁登賣能・・・"
  歌竟即崩
哭爲 歌曰:"那豆岐能・・・"
此時 歌曰:"阿佐士怒波良・・・"
行時 歌曰:"宇美賀由氣婆・・・"
歌曰:"波麻都知登理・・・"
  【是四歌者 皆歌其御葬也】
  【故至今其歌者 歌天皇之大御葬也】
乘船浮海 歌曰:"伊奢阿藝・・・"
爾其御祖 御歌曰:"許能美岐波。・・・"
如此歌 而 獻大御酒 爾 建内宿禰命 爲御子答 歌曰:"許能美岐袁・・・"
  【此者 酒樂之歌也】
歌曰:"知婆能・・・"
於是天皇任令取其大御酒盞 而 御歌曰:"許能迦邇夜・・・"
賜其太子 爾 御歌曰:"伊邪古杼母・・・"
御歌曰:"美豆多麻流・・・"
  如此 而 賜也
故被賜其孃子之後 太子 歌曰:"美知能斯理・・・"
歌曰:"美知能斯理・・・"
歌曰:"本牟多能・・・"
撃口鼓爲伎 而 歌曰:"加志能布邇・・・"
  【此歌者 國主等 獻大贄之時時 恒至于今詠之歌者也】
御歌曰:"須須許理賀・・・"
  【如此之歌幸行時・・・】
即流 歌曰:"知波夜夫流・・・"
弟王 歌曰:"知波夜比登・・・"
 《下巻》
歌曰:"淤岐幣邇波・・・"
故大后 聞是之御歌 大忿
遙望 歌曰:"淤志弖流夜・・・"
歌曰:"夜麻賀多邇・・・"
天皇上幸之時 K日賣獻 御歌曰:"夜麻登幣邇・・・"
歌曰:"夜麻登幣邇・・・"
此時歌曰:"都藝泥布夜・・・"
歌曰:"都藝泥布夜・・・"
"・・・和藝幣能阿多理" 如此 而 還 暫入坐
御歌曰:"夜麻斯呂邇・・・"
歌曰:"美母呂能・・・"
歌曰:"都藝泥布・・・"
"・・・斯良受登母伊波米" 故是口子臣 白此御歌之時 大雨
故是口日賣 歌曰:"夜麻志呂能・・・"
歌曰:"都藝泥布・・・"
"・・・岐伊理麻韋久禮"
  【此天皇與大后所歌之六歌者 志都歌之歌返也】
賜遣御歌歌曰:"夜多能・・・"
爾八田若郎女答 歌曰:"夜多能・・・"
爾天皇 歌曰:"賣杼理能・・・"
女鳥王答 歌曰:"多迦由久夜・・・"
其妻女鳥王 歌曰:"比婆理波・・・"
"・・・佐邪岐登良佐泥" 天皇聞此 即興軍欲殺
於是速總別王 歌曰:"波斯多弖能・・・"
歌曰:"波斯多弖能・・・"
問雁生卵之状 其 歌曰:"多麻岐波流・・・"
語白:"多迦比迦流・・・"
歌曰:"那賀美古夜・・・"
  【此者 本岐歌之片歌也】
歌曰:"加良怒袁・・・"
  【此者 志都歌之歌返也】
爾天皇歌曰:"多遲比怒邇・・・"
爾天皇亦歌曰:"波邇布邪迦・・・"
爾天皇歌曰:"於富佐迦邇・・・"
歌曰:"阿志比紀能・・・"
  【此者 志良宜歌也】
歌曰:"佐佐波爾・・・"
  【此者 夷振之上歌也】
歌曰:"意富麻幣・・・"
參來 其 歌曰:"美夜比登能・・・"
  【此歌者 宮人振也】
  如此御歌參歸
其太子 被捕歌曰:"阿麻陀牟・・・"
歌曰:"阿麻陀牟・・・"
歌曰:"阿麻登夫・・・"
  【此三歌者 天田振也】
歌曰:"意富岐美袁・・・"
  【此歌者 夷振之片下也】
其衣通王 獻歌 其 歌曰:"那都久佐能・・・"
歌曰:"岐美賀由岐・・・"
待懷而歌曰:"許母理久能・・・"
歌曰:"許母理久能・・・"
  如此 即共自死
  【故此二歌者 讀歌也】
行立其山之坂上 歌曰:"久佐加辨能・・・"
"・・・阿波禮" 即令持此 而 返使也
御歌歌曰:"美母呂能・・・"
歌曰:"比氣多能・・・"
答其大御歌歌曰:"美母呂爾・・・"
歌曰:"久佐迦延能・・・"
  【故此四歌 志都歌也】
御歌歌曰:"阿具良韋能・・・"
於是作御歌歌曰:"美延斯怒能・・・"
歌曰:"夜須美斯志・・・"
故作御歌歌曰:"袁登賣能・・・"
歌曰:"麻岐牟久能・・・"
故獻此者 赦其罪也 爾 大后歌曰:"夜麻登能・・・"
即天皇歌曰:"毛毛志記能・・・"
  【此三歌者 天語歌也】
天皇 歌曰:"美那曾曾久・・・"
  【此者 宇岐歌也】
爾袁杼比賣獻歌曰:"夜須美斯志・・・"
  【此者 志都歌也】
立于歌垣
爾 袁祁命亦立歌垣 於是 志毘臣 歌曰:"意富美夜能・・・"
如此 而 乞其末之時 袁祁命 歌曰:"意富多久美・・・"
爾志毘臣 亦 歌曰:"富岐美能・・・"
於是 王子 亦 歌曰:"斯本勢能・・・"
爾志毘臣 愈怒 歌曰:"意富岐美能・・・"
爾王子 亦 歌曰:"意布袁余志・・・"
  如此 而 鬪明各退
爾 作御歌歌曰:"阿佐遲波良・・・"
天皇見送 歌曰:"意岐米母夜・・・"

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