→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.10.21] ■■■ [293] 神学は峻別する必要がある 「日本書紀」は朝廷がプロジェクト組織を編成して作成した労作で、言うまでもなく国史だが、「古事記」はそのような書ではない。命じられたのは、皇統と事績の倭語口誦の文字化記録であり、太安万侶と稗田阿礼という知的な専門官僚が天皇の意向を忖度してまとめた書。当然ながらエリートクラスの読者を対象にしており、性格が全く異なる。 要するに、ものの見方も、編纂方針も違っており、両者をゴチャマゼにして読むことは止めた方がよい。 しかし、そうならざるを得ないのは致し方なかろう。 "神道"には経典が無いから、国教として紹介したい場合、"編年体記述の国史参照のほど。"という訳にもいかないからだ。経典では無いとは言え、「古事記」にその役割を背負ってもらうしか手が無いのである。そして、無理矢理でも、国史と合体させざるを得ない。 お蔭で、「古事記」は経典として扱われることになり、その観点での教説的解説は五万と積み重なっていく。 特に、厄介なのは、神道と言っても、皇統を第一義としない信仰が存在すること。宗教であれば、教祖尊崇が最優先されるのが普通であるし。ともあれ、神道なら、日本の風土から見て、経典無しと思われるが、そうもいかない。反国家宗派と認定されては拙いから、その様な姿勢では無いことを示すために教義を磨く必要があり、「古事記」の神学的解釈に精を出さざるを得ない事情があるからだ。 そのため、必然的に、古事記の神学的解釈が積み上がっていくことになる。 表面的には、歴史学的に語っているように見えても、その内実は神学とほとんどかわらなかったりするのが現実ではなかろうか。 「古事記」を読む場合、こうした環境下に居ることを念頭に置く必要があろう。 例えば、古事記には、墨江大~之荒御魂は登場するものの、直霊といった形而上学的観念が示唆されているとは思えない。 にもかかわらず、この概念を打ち出した本田親徳の一霊四魂説の解説が出てくることが多い。このような説は少なくとも平安期には存在していないというのに。新興神道の教義を持ち出して来たとしか思えないが、そう考える人は稀。と言うか、小生もそうだが、皆がそう思うのなら、ソレはソレで結構としておくのが無難な姿勢ということ。 と言っても、「古事記」に2魂名が記載されているが。 我[大物主神]は汝[大国主命]の幸魂奇魂なり。 大物主神を祀ることで国造り完了ということになるのだが、この箇所は常識をもってすれば意味不明。 従って、いかようにも解釈可能。神学が扱うべき領域であるのは自明。 同様に、親魄という用語もこのカテゴリーとして紹介されることが多い。これには流石に驚いた。魂≠魄であり、基本概念を無視しているからだ。 ・・・わからないママにしておくのは気持ち悪いかも知れないが、気にかけないことだ。 そんな例をもう一つ挙げておこう。 伊豆能賣[≒稜威之女]の存在である。一応、直其禍ことで成った神3柱とされているので、"神"と云う文字を勝手に補ったが、原文に敬称は無い。 "神"であるが、社会的にはそう位置付けられてはいないと記載しているようなもの。 ---------------------------------📖神統譜を読む難しさ <滌神> (汗垢/禍 ニ柱) 【1】 【2】 (小計不記載) (禍直 三柱) 【3】 【4】 【5】 3神 <海人系> (阿曇 四柱) 【-】( 【6】 (綿津見神の子) 【-】 (墨江/住吉 三柱) 【7】 <三貴神> 【12】[左御目] 【-】[御頸珠] ◆右件[八十禍津日神以下速須佐之男命以前]14柱神者◆ --------------------------------- この神だが、あまり祀られていない。 同社[杵築大社]坐 ⛩伊能知比賣神社@出雲国出雲郡[「延喜式」上巻] ⇒⛩神魂伊能知比売神社/天前社[出雲大社境内摂社](御祭神:蚶貝比売命+蛤貝比売命) [4社合祀]⛩伊努神社@出雲西林木(御祭神:赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命…風土記【伊努=伊農】) ⛩加良比乃神社/片樋宮@伊勢国安濃郡/津 藤方森目(御祭神:御倉板擧神 伊豆能賣神 天照皇大御神 等、合祀多数)倭姫命創建 ⛩菅田比売神社/信太社@大和郡山筒井(御祭神:伊豆能売神/菅田比賣神) これでは、なにもわからない。と言うより、さらに混乱させられる。 そんなこともあって、解説はできかねる神と見てよいだろう。 しかし、逆に、神学的には注目を浴びる存在と化すようだ。・・・ Wikiによれば、弾圧された大本教の出口王仁三郎教祖は、「伊都能売神論」を著したそうだし、その弟子 岡田茂吉は新宗派を立ち上げたそうだ。古代の最高神は伊都能売神であると。[現行教団は、世界救世教-いづのめ教団らしい。] 熱海のMOA美術館での知識しかないのでどういうことか全くわからないが、「古事記」のこの箇所は禊祓行儀が記載されていると見れないこともなく、古代の宗教書として扱うとそういう見方もありえるのかも知れない。 あくまでも神学だろうから、他の考え方も存在するのだろうが、調べるつもりはない。 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |