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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.1] ■■■
[304] 兄弟とその皇位継承者間に問題ありか
御陵非記載天皇3番目は24代意祁命(袁祁命の兄)/仁賢天皇

埴生坂本陵だが、比定地は羽曳野丘陵東側洪積段丘に位置する野中ボケ山古墳@藤井寺青山(前方後円:122m)。近隣の古市に巨大古墳群があるので小振りに映るが十分大きい。

それにしても、どうして御陵を記載しなかったのか、不思議である。先代は共に隠棲時代を過ごした実弟で、その御陵で皇嗣を宣言した筈。さらに、自身の皇子が皇嗣だから、同様な行儀で即位式典が挙行されたに違いなく、御陵に関する伝承が失われるとは思えないからだ。

問題は場所にあるのかも知れないという気にもなる。その辺りは22代非記載の問題と係わってくる。そちらを非記載にしたので、止む無くこちらも非記載にするしかなかったということになる。

そうだとすれば、24代御陵の別情報を得ていたということになろう。もちろん、それを開示する訳にはいかないだろうが、偽情報をバラ撒く意味があるとも思えないので、色々と考えたのではなかろうか。

結局のところ、兄弟は性情も大きく異なり、播磨に対する姿勢や対外政策の考え方も異なっていたため、イザコザが発生したと見なしたのだろう。御陵非記載は、それを示すには最良の手ということ。
要するに、弟即位後すぐに兄弟不和の状況に陥ったと見なしたのである。

皇嗣なき弟は、兄の御子を皇子同然に扱い、兄は孤立していたことになる。そもそも、弟から皇位継承する立場にある筈もないから、おかしなことではない。
それに、弟は、機を見て、身分を明かすというリスクテーカーだし、皇嗣を欠いた兄の御子も似たところがあるように描いている。

・・・想像が過ぎるか。

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