→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.3] ■■■ [306] 科長は新時代の集合墳墓地 ㉝大野岡上 河内 科長大稜(推古天皇)押坂内陵 ㉛石寸掖上⇒科長中稜(用明天皇)河内 磯長原陵 ㉚川内 科長陵(敏達天皇)河内 磯長中尾陵 意図しているのかはわからぬが、"王陵の谷"で唯一例外的な存在の、伝統的前方後円墳が陵で、他は稜なのだろうか。差異は大・中といった規模で。 一方、「延喜式」は、磯長での場所をIDにしたようだが、通用する地名か否かはよくわからない。もちろん、即位していないと陵ではない。・・・ ---"陵"在河内国石川郡@「延喜式」--- 河内磯長中尾陵 譯語田宮御宇㉚敏達天皇 河内磯長原陵 磐余池辺列槻宮御宇㉛用明天皇 磯長墓 橘豊日天皇之皇太子 名云○聖徳 磯長山田陵 小治田宮御宇㉝推古天皇 大坂磯長陵 難波長柄豊碕宮御宇㊱孝徳天皇 ちなみに、「古事記」では、具体的にはこのように記述される。 御子沼名倉太玉敷命[㉚敏達天皇] 坐他田宮治天下壹拾肆歲也 : 御子17柱[8+2+3+4] : うち日子人太子の御子7王[3+2+2]…㉞岡本宮天皇含む 甲辰年四月六日崩 御陵 在川内科長也 御陵非記載で、河内坂門原陵@羽曳野西浦と埴生坂本陵@羽曳野丘陵東側洪積段丘を取り上げたので、一応、確認したくなったのである。 要するに、この地は墓域なのである。王陵に限っている訳ではなく、太安万侶がいみじくも大中小でしかないと看破したように、個々の特徴など無いし、偉容を誇るという意味も薄れ、儒教的に地位と出自による官製基準に沿って画一的に造成されるようになったということ。 古市時代は、いかにも大土木工事の一環を兼ね、開拓・灌漑や交通網整備との繋がりを感じさせると共に、大王尊崇のモニュメントとしての役割があったろうが、どうも墓域確保ということで、この」地に白羽の矢が立ったように思える。 おそらく、膨大な数の墳墓があると思われる。 と言っても、多くは渡来人と見て間違いない。根は儒教であるから、宗族墓地に埋葬したいが、移住なので、そのような地を欠いており、ここらに住むことになった人も多いため、一気に墓域化が進んだのだと思う。 さらに、交通の便が最良という点も大きい。言うまでもないが、竹内街道ありきだ。 ここらは要衝に当たると言ってよいだろう。全ての荷も人も峠越え準備をせざるを得ないのだから。 おそらく、それを取り仕切ったのが蘇我氏。 交通網維持、保管倉庫、運搬システム、墳墓設計、棺・副葬品手配、等々のマネジメント役を果たせる人材を擁していたということ。どれにしても、渡来人の能力に依存するしかなかったのが実情だろう。 ---【河内飛鳥】--- 型名非記載は方墳 《羽曳野》…北側 千塚地区(鉢伏山・観音塚) 塚穴 《太子》…磯長谷地区(竹内街道系) [前方後円墳]太子西山㉚ 春日向山㉛ 山田高塚㉝ 二子塚 越前塚 松井塚 仏陀塚 [円墳]叡福寺○聖徳 [円墳]山田上ノ山古墳㊱ 《一須賀》…磯長と平石の間の古墳群 《平石街道系》…竹内街道南方 シシヨツカ[塚] 駕田 アカハゲ/赤刷毛 ツカマリ/塚廻 [双円墳]金山 《加納・白石》平石西南古墳群 --- 《明日香》【大和飛鳥】 石舞台 岩屋山 カナヅカ/金塚 都塚 --- 《桜井》 赤坂天王山㉜…"倉椅岡上" 谷首 茅原狐塚 [円墳]ムネサカ1号 [円墳]越塚 [円墳]立子塚 コロコロ 《天理》 ハミ塚 [円墳]峯塚 《橿原》 植山 小谷 --- 《斑鳩》 [円墳]藤ノ木 《広陵》 [円墳]牧野 (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |