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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.15] ■■■
[318] [私説]竺紫君石井の分派活動終焉
日本国最後の内戦は薩摩藩西郷隆盛だが、最初の方は習っていても記憶からとんでしまいがち。筑紫君磐井の反乱という名前以上に余りイメージが湧かない。
それも当然であろう。どのような素性の人物か明らかにされていないからである。

ただ、日本の社会形成という観点では、とてつもなく大きな影響を与えたのは間違いないようだ。
・・・という見方をすべしというのが、太安万侶の歴史観だろう。

と言うのは、「古事記」下巻末の、意祁命(袁祁命の兄)/[24]仁賢天皇段〜豊御食炊屋比売命/[33]推古天皇段は、宮名記載の後に崩御年と御陵を示してから、系譜を書いているだけだからだ。
にもかかわらず、ただ、例外が1つある。それが、竺紫君石井征伐の事績。
明らかに、とんでもなき重大事と指摘している訳である。

と言っても、書いてあることは軽く、あっけにとられるほどの薄い内容。

  此御世…@[品太王五世孫]袁本杼命/[26]継体天皇
  竺紫君石井 不從天皇之命 而
  多无禮
  故 遣 物部荒甲之大連 大伴之金村連 二人 而
  殺石井也

実情のほどは分からないものの、これは、「筑後国風土記(逸文@「釋日本紀」卷十三筑紫國造磐井)」磐井墓の記述に符合する。
この墓だが、この地域で最大規模で、石人が出土した、岩戸山古墳[前方後円墳135m]@八女吉田甚三谷と見て間違いなさそう。

<筑後國風土記曰:>
上妻縣
縣南二里 有筑紫君磐井之墓 墳高七丈 周六十丈
墓田南北各六十丈 東西各卅丈
石人 石盾各六十枚 交陣成行 周匝四面
當東北角有一別區 號曰衙頭
  <衙頭:政所也>
其中有一石人 縱容立地 號曰解部
 前有一人 裸形伏地 號曰偷人
  <生為偷豬 仍擬決罪>
 側有石豬四頭 號曰賊物<賊物 盜物也>
 彼處亦有 石馬三疋 石殿三間 石藏二間
古老傳云:
「當雄大迹天皇繼體之世
 筑紫君磐井 豪強暴虐 不偃皇風
 生平之時 預造此墓
 俄而官軍動發 欲襲之間 知勢不勝
 獨自遁 于豐前國上膳縣
 終于南山峻嶺之曲
 於是 官軍追尋失蹤
 士怒未泄 擊折石人之手 打墮石馬之頭」
古老傳云:
「上妻縣 多有篤疾 蓋由茲歟」

どちらを読もうと、反乱に立ち上がった勢力を朝廷が鎮圧したとのイメージは湧いてこない。
中央の意向に従わず、天皇の威光を認めようとしない勢力を制圧する決定がなされ、突然、筑紫に鎮圧の軍勢が攻め込んだという状況としか思えない。
もちろんのことだが、国史では反乱鎮圧と記載されているからこそ、冒頭のように初の内戦とされるが、太安万侶の見方は全く違うということになろう。しかも、「古事記」24代天皇〜33/34代天皇の時代の記載は、これを伝えるためにあるということになる。東シナ海の国際情勢や任那問題、伝来仏教には一切触れないにもかかわらず、この一点に絞り込んでいるのである。

つまり、国際的なパワーバランス上の大変動という背景のもとでの、"内乱発生⇒鎮圧⇒中央集権深化"という、常識的な歴史観に惑わされるなとの、ガツンと一撃と言えよう。

要するに、内乱ではなく、朝廷の"竺紫君石井の天皇不服従姿勢許さず"政策への転換に過ぎないとの主張である。
問題は、この不從天皇之命の意味の解釈であるが、風土記の記載からみて、それは石人尊崇のような、前方後円墳祭祀の独自化が進んでいた状況を意味していそう。
物部と大伴という、古代からの伝統を保つ軍事勢力を派遣し、それを咎めたということになろう。連合王国的な感覚での地方統治許さずという決断が下されたという意味で、画期と言うことになろう。

ここでのポイントは、王権の問題ではなく、神権こそ見るべき点。戦略的な中央集権化の流れというのは後付け解釈に過ぎず、国家存立の基盤は信仰にありと指摘しているようなもの。

言うまでもないが、その後、朝廷は大胆にも仏教国化へと邁進。短期間で前方後円墳の一斉消滅を実現する。太安万侶が日本国は天武朝で、道教天皇統治国としての完成形を実現した、と言わんばかりの序文を書いた理由がよくわかる。
地場信仰だろうが、哲学だろうが、朝廷統治を確固なものにするために意味があるなら、神学論争無しで、天皇の認証あればすべて取り込んで習合可能なのは道教以外にはないからだ。

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