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■■■ 「古事記」解釈 [2021.11.21] ■■■
[324] [私説]"こもりくの"泊瀬の意義
万葉仮名で、波都世 乃 加波[「萬葉集」巻十三#3299左注]と呼ばれる地だが、漢字表記すれば"長谷之川"[ibid.#3225原文]であり、長い峡谷という地勢を意味する当て字と言ってよいだろう。しかし、この表記は一般的ではない。この地が詠まれていることは多いが、基本表記は"泊瀬"。船溜まりを造成した急流河川の船着き場の地ということだろう。
太安万侶は長谷を採用したが、歌での、枕詞として、"こも[隠]りく[口⇒國]の"を使うのだから当然と言えよう、というのが小生の見方。

長谷の宮に座した2柱の天皇の位置付けを考えたいなら、ここらの常識的な見方で記載していることを確認しておく必要があろう。
《長谷朝倉宮》・・・大長谷若建命/[21]雄略天皇
《長谷之列木宮》・・・小長谷若雀命/[25]武烈天皇

と言うのは、天皇という称号は後世に決められたものだから、天皇と認定されている場合の称号は、原則、"命"とする筈で、全般的には、そのようになっているのだが、例外的に大長谷王となっているからだ。しかも、多用している。
即位前の特異性を強調していることになろう。

つまり、隠國の王として、存在感を誇示していたことになる。

しかし、その姿勢は突飛な訳ではなく、大和朝廷草創期の葛城辺りの勢力の基本スタンスでもあった。温故知新的な模倣方針とも言えよう。
防衛に適した高地性の集落と狭い谷間の柔らかい土壌での耕作という社会を構築することになるが、当然、山麓扇状地や湿地帯開拓の生産性とは、較べるべくもない。治水・灌漑技術があるなら、平地は経済的に圧倒的優位性があるものの、大規模常備軍配備なくしては完全防衛は成り立たないので、それを追求すると経済的窮乏化を招きかねないからバランスは難しい。
一方、山懐が深い地なら、農耕民を一気に集めて兵力化し易く、衝突時点で量的に相手の3倍を越えれば勝利という鉄則に徹すれば、武力支配も可能だ。短期的ロジスティックが勝敗の鍵を握るから、軍船の数がものを言う訳で、初瀬川が盆地に流入し右折し北行する辺りに造成した船溜まり辺りを即時軍港化できると圧倒的に優位だ、上流の地に宮を構える手は軍事的には大いに意味があろう。(大和川の末端に当たる海石榴市は、東西への陸路とも繋がる繁栄のための拠点であり、宮地をこの近辺に設定することは自然な流れ。・・・伊波禮若櫻宮◆17 長谷朝倉宮◆21 伊波禮甕栗宮◆22 長谷列木宮◆25 伊波禮玉穂宮◆26 師木島大宮◆29 他田宮◆30 池邊宮◆31 倉橋柴垣宮◆32)

朝倉宮とは、戦利品貯蔵の倉が並ぶ宮を想起させるような表記であるし、防衛的に優れた設計の、鬱蒼とした木々の道の奥に宮を造営したからこその列木宮であろう。隠國に最適な地ならではと言えよう。
(馬の時代になると馬の威力が大きいと思われ、伊賀辺りの育成適地との繋がりがあり、高地小規模平坦地という飼育場があれば、戦力的に凌駕できることになるが、大長谷時代はそこまではいくまい。小長谷期には馬はかなり一般化していたようだが。天武天皇の内戦勝利も、美濃辺りの馬の力を活用できたことが大きいのと違うか。)

尚、現存寺社は川沿いの街道に分布している。平安期にすでに旅行者が多かったから、それに対応した様々な伝承譚が新たに生まれたり、変更が進んでいておかしくなく、古代の実態を反映した話がママ残存しているとは言い難い。だが、かえって、まるっきりの創造譚も難しいだろうから、それぞれなんらかの意味がありそうである。
地域名はこのような具合:
   (三輪)金屋
   慈恩寺〜脇本〜黒崎〜出雲〜白河〜初瀬
   朝倉台/竜谷〜岩坂〜狛〜笠間〜安田
海石榴市側から・・・

玉列神社(大神神社境外摂社)
脇本春日神社
 脇本遺跡(掘立柱穴)@隣接地(燈明田)…泊瀬朝倉宮跡説
白山比盗_社@黒崎…境内に"雄略天皇泊瀬朝倉宮伝承地"碑
  天の森…泊瀬朝倉宮説
十二柱神社@出雲…境内に"武烈天皇泊瀬列城宮跡"碑
  乘田神社@白河…美和河邊の洗衣童女 引田部赤猪子の"引田部"の地
長谷山口座神社@初瀬
  山口神社は奈良盆地では山の入口には必ず存在しているようだ。
    …鴨 巨勢 飛鳥 石寸 忍坂 長谷 畝傍 耳成 夜支布 伊古麻 大坂 當麻 吉野 都祁
      長谷山口は一言主大神が天皇之還幸時に送奉した地である。

  卍長谷寺@初瀬 686年創建天武天皇病気平癒祈願
愛宕神社

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