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■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.19] ■■■
[352]柿本人麻呂とは姿勢が異なる
「萬葉集」と「古事記」の関係について触れたので、万葉歌人として遍く知られる柿本人麻呂に関しても眺めておきたい。太安万侶と同時代人だし。
と言っても、その年譜はほとんどわかっていない。書に全く登場してこないからだ。

「万葉集」では筆頭的歌人の扱いだし、皇子・皇女と直接的に係わっての作歌者だから、高位官人でもおかしくないように思ってしまうが、稗田阿礼同様に舎人クラスだったのだろう。
ちなみに、叙景歌で有名で、並び賞せられる山部赤人(天平8年/736年没)は外従六位下上総少目だが、萬葉集ではよく知られるものの[長歌13首短歌37首]、同様に書では氏名が見つからないらしい。歌人活動は聖武天皇行幸に係わるものなので、「古事記」成立後の人である。

《柿本人麻呂》  《太安万侶》    《山上憶良》
[誕生]660年頃  [誕生]n.a.      [誕生]斉明6年/660年頃
   ↓
   天武天皇代
[
出仕]天武9年/680年
   ↓     
[詔]「古事記」編纂
   持統天皇代
   ↓
   文武天皇代
[朝廷での年代判明歌の最後]
 文武4年/700年
   ↓                 
[命]大宝2年/702年 遣唐使
   元明天皇代
   │     
[叙]和銅4年/711年 正五位上
   │     
[献]和銅5年/712年 「古事記」
   ↓                 
[叙]和銅7年/714年 正六位下⇒従五位下
   元正天皇代
   ↓     
[逝去]養老7年/723年 従四位下民部卿 贈従三位 勲五等
   聖武天皇代
[逝去] 神亀元年(724年)
         [叙]神亀3年/726年頃筑前守
                     [逝去]天平5年/733年 従五位下筑前守


「万葉集」所収の柿本人麻呂作の歌は680〜710年に作られたと見て間違いなさそうだ。作品と認定すべきか否か微妙な歌もあるらしいし、原本選択の違いもあろうから、収載数には諸説あるようだが、大体のところ、以下の程度と考えてよさそう。・・・
   "柿本人麻呂署名歌"長歌18首 短歌68首
  「柿本朝臣人麻呂歌集」373首
(長歌2首 旋頭歌35首)
数が多いせいか、全体像が一目でわかる"まとめ"サイトが見つからなかったので、よくお目にかかる歌と共に、以下を急遽策定。概観を眺めるならこんなものでもよかろうということで。時間をかけていないので、ミスはかなり多いだろうから、そのおつもりで。・・・
<作>
巻一#29-31@持統3年/689年…近江荒都歌
  [#30] 楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ
巻一#36-39@持統4年/690年…吉野行幸歌
  [#36] やすみしし我が大君の 聞こしをす天の下に 国はしもさはにあれども 山川の清き河内と 御心を吉野の国の 花散らふ秋津の野辺に 宮柱太しきませば ももしきの大宮人は 舟並めて朝川渡り 舟競ひ夕川渡る この川の絶ゆる事なく この山のいや高知らす みなそそく滝のみやこは 見れど飽かぬかも
巻一#40-42@持統6年/692年…伊勢行幸歌
巻一#45-49@持統6年/692年…軽皇子安騎野遊猟歌
  [#45] やすみしし 我が大君 高照らす 日の皇子 神ながら 神さびせすと・・・
  [#46] 安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
  [#47] ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
  [#48] 東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ
巻二#131-140…石見相聞歌
  [#133] 笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば
巻二#146@大宝1年/701年…紀伊行幸時歌
巻二#167-170@持統3年/689年…草壁皇子挽歌
巻二#194-195…泊瀬部皇女への献歌[川島皇子殯宮]
  [#195] 敷栲の袖交へし君玉垂の越智野過ぎ行くまたも逢はめやも
巻二#196-198@文武4年/700年…明日香皇女挽歌
巻二#199-202@持統10年/696年…高市皇子挽歌
巻二#207-219
  [#207] 天飛ぶや 軽の路は 吾妹子が・・・
  [#208] 秋山の黄葉を茂み迷ひぬる妹を求めむ山道知らずも
  [#218] 楽浪の志賀津の児らが罷り道の川瀬の道を見ればさぶしも
巻二#220-222…讃岐国
巻二#223…石見国臨死歌
  [#223]鴨山の岩根しまける我をかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
__#224-225[死時妻依羅娘子歌]
__#226-227[死時友人歌]
巻三#235
  [#235] 大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
巻三#239-242
巻三#249-256,303-304…瀬戸海旅歌
  [#251] 淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
  [#255] 天離る夷の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ
巻三#261-262,264
  [#264] もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波の行くへ知らずも
巻三#266
  [#266] 近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ
巻三#423,426,428-430
巻四#496-499,501-503
  [#496] み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも
  [#503] 玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
巻九#1710-1711,1715,1761-1762
巻十#2033@天武9年/680年[庚辰]
巻十一#2453,2634
  [#2453] 春柳葛城山にたつ雲の立ちても坐ても妹をしそ思う
___#2802[詠人未詳⇒"百人一首"]
  [#2802] あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
巻十五#3606,3608-3611
<歌集>
巻二#146
巻三#244
巻七#1068-1088,1092-1094,1100-1101,1119,1187,
     1247-1250,1268-1269,1271-1294,1296-1310 

  [#1068] 天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ 
  [#1088] あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ち渡る 
  [#1269] 巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは
巻九#1682-1709,1720-1725,1761-1762,1773-1775,1782-1783,1796-1799 
  [#1709] 御食向ふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる
  [#1797] 塩けたつ荒磯にはあれど行く水の過ぎにし妹がかたみとそ来し
巻十#1812-1818,1890-1896,1996-2033,2094-2095,
     2178-2179,2234,2239-2243,2312-2315,2334 

  [#1812] ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
巻十一#2351-2362,2368-2516 
  [#2353] 長谷の斎槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる月夜に人見てむかも 
  [#2368] たらちねの母が手放れ斯くばかり為方なき事はいまだ為なくに 
  [#2394] 朝影にわが身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに 
  [#2456] ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ
  [#2476] 打つ田に稗はしあまたありといへど択えし我そ夜一人ぬる
巻十二#2841-2863,2947,3063,3127-3130
巻十三#3253-3254,3309 
  [#3254] 磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
巻十四#3417,3441,3481

おそらく、柿本人麻呂の文字歌には、太安万侶ガッカリだっただろう。
もともと、漢字は一文字一意の表記用。倭語の同一意味がそれぞれあてられて翻訳されることになる。従って、誤解を避けることができるなら漢字の倭語読みは難しい訳がない。しかし、インターナショナルに通用する漢字には、決められた音読みがあり、漢文をママ読む際にはそれを用いるしかない。従って、訓読み漢字と、助詞のような対応文字が無い箇所を音読み漢字として使えば倭語の漢字表記ができることなど、理屈の上では当たり前の話に映る。
だが、そのようなことを太安万侶が進めようとした訳ではないと思う。ここの理解が決定的に重要だと思う。・・・倭語は限定した数の音素によって成り立っており、歌謡とは、それが醸し出す特定の音素数による歯切れ感、句内音素の連鎖イントネーション、そして句を跨ぐリズム感と相互の繰り返しや類似性的関連の存在(韻,枕詞,等)が聞く者の心を揺さぶることになるのに気付いていたと思われるからだ。
歌謡の核はこうした表現の粋である歌(韻文)であり、地文(散文)はその通奏低音的役割を果たすものと、明確に指摘したと言えよう。単に伝承されて来ただけの歌謡だったが、初めてその構造がはっきりと示されたのである。
しかし、なにはともあれ、文書化という流れは急であり、柿本人麻呂はそれに応えたに過ぎまい。ただ、そのおかげで、太安万侶の考えた「日本語」が定着したとも言えよう。意味を示す漢字と、助詞等の音だけの漢字を混ぜて使うことができるようになったのは、凄いこと。現代人は当然視するかも知れないが、抵抗感なくそんなことが出来る人はいなかった筈。
しかも、歌の文字化というか、詠み歌から読み歌への転換に成功するのだからたいしたもの。もっとも、それによる失われたものも少なくなかろう。太安万侶が一番危惧していた点である。・・・後代に和歌の仮名文字表記が始まるが、その精神と同根である。現代人にとっては忘れ去ってしまった感覚なので、せいぜいが国風化という形而上学的見方しかできないが。
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