→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.20] ■■■
[353]珠副葬の火葬墓だと仏教徒では
ご存じのように、1979年、奈良盆地から10Km以上東に入った大和高原 此瀬の丘陵南斜面で、薄銅板の太安万侶墓誌が出土。4個の真珠と火葬骨を納めただけの木炭槨墓である。
平城京内埋葬は厳禁であったから、御陵は京の北方丘陵地(奈保山・佐保山)に多いが、貴族・官人は周囲の丘陵に葬られたようだ。と言っても、49代光仁天皇の田原東陵[田原塚ノ本古墳]やその父の追号では春日宮天皇田原西陵が大和高原にあるが。

中華帝国での副葬品として、飯含・玉匣に珠玉が使われていたことが知られている。しばしば、それは華美な埋葬で愚かな俗人のすることとされ禁止されているが、実際のところ墳墓から出土しているから幅広く埋葬されていたのは間違いない。飯含の場合、もともとは真珠を口に含ませていたのだと思われるが、多くの場合、瑪瑙が使われており、彫刻が施されていることも少なくない。

ところが、本邦の古墳の副葬品として真珠が出土したとの報告は見掛けない。(玉と違い有機質なので消滅してしまった可能性も否定はできないが、不要と見なされていたと考えるのが自然だ。)
一方、飛鳥寺塔心礎跡から真珠14粒が出土している。「法華経」の七宝(金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠・玫瑰)としての埋納品であると考えるしかなかろう。
(「無量寿経」では、真珠・玫塊[赤瑪瑙]でなく、玻璃[水晶]・珊瑚となる。)

言うまでもないが、塔とは天竺の仏舎利塔/ストゥーパを意味しており、葬儀に由来する。天竺では、香料で拭き清められた遺骸(絹綿で被われる。)を上記七宝で荘厳することになるから、埋納品とはそれを意味していると見てよいだろう。(その後、散華・焼香の後、出棺火葬される。)釈尊の浄飯王葬儀が標準だが、太安万侶の頃の日本では、持統天皇⇒文武天皇⇒元明天皇⇒元正天皇と4代に渡って火葬が続いており、この時期、それに沿った葬儀を行うことにしたようである。

このことは、中華帝国とは異なる方向に振ったことになる。大陸では、霊と魂魄の観念があるから、火葬は敬遠されて当然だからだ。
おそらく、古代、火葬されたのは、仏教徒のみで、皇帝は土葬。

薄葬するように命があったにもかかわらず、真珠を埋納し、火葬にしたということは、仏教徒して葬るように、との遺言があったと考えるのが自然だろう。

 (C) 2021 RandDManagement.com  →HOME