→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2021.12.26] ■■■ [359]物部考をほんの少々 「古事記」は、この時代に関しては、原則皇統譜だけの記載に留めている。仏教についても何も触れていない。理由は色々と想像できるが、宗教対立的な視点でこの時代の流れを見ることに批判的だったせいもありそう。 歌謡の核心部分を残そうと頑張っていれば、そんな気分になっておかしくないからだ。・・・神祇には、必ず祝詞や呪詞がつきものだが、秘匿的なため、消え去るのは時間の問題と考えていたということ。儒教的統治国家化は不可避な以上、それは避けられず、神祇のそこらの行儀の喪失を救っているのは現実には仏教勢力であることに気付いたからでもあろう。 実際、反仏教勢力とされながら、太安万侶の時代の朝廷に於いて、非皇族の最高官僚は物部連麻呂こと左大臣石上麻呂だった訳で、「古事記」編纂を命じた天武天皇が抜擢した国際派と見て間違いなく、廃仏国粋的な立場とはほど遠い。 仏教の国際的ネットワークがあっての、天竺〜ソグド域〜敦煌〜長安の交流路であることに気付かない訳もなく、カルト集団を除けば、反仏教路線の採用など有り得まい。新しい文化から取り残される道を敢えて進もうと考える官僚が居るとは思えないからだ。 ここで注意すべきは、皇統譜のみ記載といっても、唯一例外がある点。それは物部・大伴による筑紫域反乱の鎮圧。両者は朝廷内の軍事勢力だったことがわかるが、物部守屋はあっけなく敗れ去ったのだから、組織的に戦う能力が優れていた訳ではなさそう。となれば、その力の源は、おそらく呪術。 それは、おそらく伝統なのだろうが、神権を誇示するような動きを示唆する記述は見当たらないから、氏族として一枚岩的に行動する体制構築はできなかったのだろう。と言うか、名称から見て"部"とされる以上、専門職掌であり、石上で呪術用具としての武器を保管する役割だったと見ることもできそう。 播磨に逃れ隠れていた、市邊之押齒王御子の歌では、"物部"は武人としての一般用語的に使われており、もともと部民や氏族的な紐帯が薄い人達の集団だった可能性がたかそうである。物部一族的な見方は、テリトリーに皇族や氏族が入ってきたため、まとまって対処する必要が生まれたということではなかろうか。 《上巻》 -----火之迦具土~段----- 伊邪那岐命 拔所御佩之十拳劔斬其子迦具土神之頸・・・ 次著御刀本血 亦 走就湯津石村 所成神名・・・ 次建御雷之男神 亦名 建布都神 <布都二字以音 下效此> 亦名 豐布都神 : 故 所斬之刀名謂 天之尾羽張 亦名謂 伊都之尾羽張 -----国譲段----- 思金~及諸~白之: 「坐天安河河上之天石屋 名 伊都之尾羽張~ 是可遣・・・」 : 問天尾羽張~之時 答白: 「之仕奉 然於此道者 僕子建御雷神(伊都之尾羽張神之子)可遣乃貢進」 爾 天鳥船神 副 建御雷神而遣 : 故建御雷神 返參上 復奏 言向和平葦原中國之状 《中巻》 -----初代天皇熊野段----- 汝建御雷神可降 爾 答曰: 「僕雖不降 專有平其國之横刀 可降是刀」 <此刀名 云 佐士布都神 亦名云 甕布都神 亦名云 布都御魂 此刀者 坐 石上神宮 也> 降此刀状者 穿高倉下之倉頂 自其墮入 「故建御雷神教曰 穿汝之倉頂 以此刀堕入」 -----初代天皇即位前段----- 故 爾 邇藝速日命參赴 白於天~御子: 「聞天~御子天降坐 故追參降來 即 獻天津瑞以仕奉也」 故 邇藝速日命 娶登美毘古之妹 登美夜毘賣 生子宇摩志麻遲命 <此者 物部連 穂積臣 婇臣 祖也> -----[11]伊久米伊理毘古伊佐知命/垂仁天皇段---- 次印色入日子命者 作血沼池 又作狹山池 又作日下之高津池 又坐 鳥取之河上宮 令作横刀壹仟口 是奉納石上神宮即坐其宮 定河上部也 《下巻》 -----[17]伊邪本和氣命/履中天皇段----- (墨江中王火著大殿故率逃) 故上幸 坐石上神宮也 : (伊呂弟水齒別命) 故參出石上神宮 令奏天皇 -----[20]穴穂御子/安康天皇段----- 坐石上之穴穂宮 -----[22]白髪大倭根子命/清寧天皇----- 爾遂兄儛訖 次弟將儛時 爲詠曰: 「物部之 我夫子之 取佩 於大刀之手上・・・ ・・・伊邪本和氣天皇之御子 市邊之押齒王之奴末」 -----[24]意祁命/仁賢天皇段----- 坐石上廣高宮 -----[26]哀本杼命/繼體天皇段----- 此御世 竺紫君石井 不從天皇之命 而 多无禮 故遣 物部荒甲之大連 大伴之金村連 二人 而 殺石井 也 ---------【参考:@国史】--------- ◇物部守屋 n.a. [父:物部尾輿]…誕生。 572年…大連に任ぜられる。 587年…丁未の乱死没。 ◇左大臣石上麻呂 640年[父:物部宇麻乃]…誕生。 672年物部連麻呂…[壬申の乱]大友皇子の伴臣を貫く。 676年大乙物部麻呂…新羅大使として派遣される。 684年物部連…朝臣姓賜わり石上に改氏名。 686年…天武天皇殯宮で法官。 690年…天皇即位式で大盾儀礼。 700年直大壱石上朝臣麻呂…筑紫総領に。 701年中納言直大壱石上朝臣麻呂…正三位大納言に昇位。 702年石上朝臣麻呂…大宰帥に任ぜられる。 704年大納言従二位石上朝臣麻呂…右大臣に任ぜられる。(非皇族最高位) 708年従二位石上朝臣麻呂…正二位左大臣に叙せられた。 (同時に、藤原不比等が正二位右大臣に。) 710年…旧都藤原京の留守役に。 712年-----「古事記」献呈 717年…薨去。従一位。(78歳) (C) 2021 RandDManagement.com →HOME |