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■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.5] ■■■
[369]"詔 勅"等の表記の峻別が見てとれる
詔勅という言葉を知っているものの、勅は一般的で、詔は公式臭が漂うくらいの差異しか思い浮かばない。

「古事記」を読むと、どうもそれだけではなさそう。

勅は詔と共に序文で使用されているものの、本文ではほとんど使用されないからだ。と言うか、勅は例外場面のみ。・・・
 根臣 即盜取其禮物之玉縵
 讒大日下王曰:
 「大日下王者不受"勅命"曰:
   "己妹乎 爲等授之下席" 而
  取横刀之手上而怒歟」
 故 天皇大怒殺大日下王

序文は、もちろん、肝心要の箇所。
 於焉 惜《舊辭》之誤忤 正《先紀》之謬錯
 以 和銅四年九月十八日
  臣安萬侶撰録 稗田阿禮所誦之"勅語"《舊辭》
 以 獻上者謹隨"詔旨"
その前に経緯を示す一言があるが。・・・
 即 "勅語"阿禮
  令 誦習《帝皇日繼》及《先代舊辭》
 然 運移世異 未行其事矣

この辺りだけでも、太安万侶が用字に神経を使っていることがわかろうというもの。
「古事記」の用字法がいい加減に映るとしたら、それは読み手のレベルが太安万侶のレベルと差がありすぎるというに過ぎまい。
それと度々書いて来たが、写本はプロが行うもの。現代の大衆化社会とは違って、プロによる誤字脱字発生や訂正は極めて限定的な事象と考えるべきだろう。ご都合主義的な文字変更を行なう人々とは、素人は別だが、神典化狙いか、その正反対の行為と見て間違いなかろう。

例えば、素人でも、「古事記」の文章を眺めた途端に、"白"と"曰"が使い分けられていることに気付く筈。
文字の違いが気になるからだ。

どうも、前者は敬語的要素を感じさせる表現のようである。従って、"白言"と重複に映る用字が出てくることになるのだろう。おそらく、対象が異なるとか、意義が違うことを示していると思われるが、少なくとも"詔 勅"とは別な意味の用字であることは確か。

わざわざ"言"を用いると言うことは、言霊的な意趣があるのかも。
さらに考えてみれば、そのような状況とは違う場合は、"告"という異なる概念の文字を使うようだ。言い換えれば、言霊的な言葉として記載される場合は、祭祀行為を示していると考えることもできそう。"謂 云"はそんなニュアンスゼロということになる。
  つげる[告]…表明宣布
  のる[宣]…命令
  御言[みこと][のり][詔]…教導
   〃 [勅/敕勅]…誡
   〃 [誥]…告諭

類似語はこの他にもある。宣命文とか奏上という熟語を丸暗記させられているが、これらの馴染み文字も登場してくる。
現代でも「〜と言った。」という文章と同類の表現は数多く、それを普段はなにげなく使い分けている。そこに存在するルールを振り返って見ることなど皆無。同じような習慣はすでに「古事記」成立時点で成立していたことになろう。太安万侶は、そんな状況でルールをご存じだったことになる。

もっとも、浅学者は、流石に、そのようなルール解明に挑戦しようという気にはならない。

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