→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.8] ■■■ [372]東征と言うより南九州部族東遷が妥当 脱高千穂の議論をして、どちら方向を目指すかを決定しただけに過ぎず、どのように推進するかはいくつかのオプションがある筈だからだ。大勢力を組織して一気に行軍では無い可能性も高いのでは。いきなり、訳のわからぬ地へ向かうようなことをするとは思えず、先遣隊や別動隊が出発して見極めがついてから、初代天皇の本隊が進むというのが常識的戦略ではなかろうか。 と言うか、そう考えないのは、東征の概念を欠くからである。 もともと瀬戸内勢力と対峙して勢力争いをしていたなら、一気に攻勢をかけて服属させる手を使うだろうが、<神武東征>はそのような戦争とは全く違っているのでは。 ここらを読み解くカギは<神権女系の下で王権末子>という社会構造の存在。 倭の社会をこの様に考えるなら、太安万侶が描いたのは、東征ではなく、東遷であろう。それが、一番自然だからである。 先ずは確認。・・・天津日高日波限建鵜葺草葺不合命の御子神4柱のうち、末子が継承者であり、女神を祖とする<神権女系の下で王権末子>の社会ルールそのもの。そうなれば、この末子は、南九州の地で婚姻関係を結んで、その地の宮に座し、御陵もその近隣に造成するのが筋だ。ところが、婚姻を果たしたものの、その地を捨てて行宮を転々として、公的な宮を大和とし、そこで皇后を娶り継承者をその御子とし、御陵もその地に造成させた。いわばコペルニクス的転回ともいうべき姿勢といえよう。 一方、兄だが、女系性社会では兄は僕となり残るか、去るかの二択。どちらにしても子ができるが、父子の紐帯は極めて弱く、自分の母や兄弟との関係持続を最優先して生きることになる。つまり、この場合、末子を支える動きはするものの、末子を伴として征服に立ち上がるなど、地位逆転であり得ぬ所業になってしまう。 このことは、神武東征譚と呼ばれる話は、現実的には五瀬命譚であることになろう。末子若御毛沼命は、長兄が率いる先遣隊が切り拓いた地平に行幸するというスタイルと考えるべきだろう。 さらに、次男 稲氷命は海原へ、三男 御毛沼命は浪穂跳んで常世國へ、と記載されているが、これらは、それぞれ別途に東征し、何れかの地で敗死したことを意味していよう。当然ながら、首領を失った別動隊はその後本隊との合流を目指すことになろう。 繰り返すが、長男・次男・三男・末子が揃って軍団を組んで東征するなど<神権女系の下で王権末子>の社会では考えられない。 (長男・次男・三男が本貫地を捨てて行くのは、繁栄している社会なら当たり前の行為。奴隷労働者と耕作地拡大で繁栄を図る男系社会の仕組みではないからだ。簡単に言えば、人口の急激な増加を嫌うため、末子を除けば外へ旅立たせる仕組みと言えよう。) ・・・こうした状況だとすると、異常事態が発生したと考えざるをえまい。繁栄して来た宮を捨て、一族全体が移動を余儀なくされたのだから。 その原因としては、パンデミックか驚異的自然災害しかあるまい。「古事記」は、そのことに一切ふれていないものの、常識的には火山の大爆発の可能性が高そう。阿蘇山か鹿児島に存在するどれかのカルデラということになろう。 <ゲルマン民族大移動>とは切っ掛けは異なるが、<皇孫一族東遷>ということで、同じように本貫地を捨てて出立せざるを得なくなったのだろう。 ●【左御目】 │<誓約(勾玉)> ├┬┬┬┐ ● └┬● ┼├┐ ┼● ┼│ <宮内庁治定地@国史> ┼│ [邇邇芸命陵]可愛山陵@延岡(祖母傾) ┼│ [御陵伝承地]@宮崎北川俵野可愛 ┼│ [御陵墓参考地]@西都西都原 ┼└┬● ┼┼├┬┐ ┼┼┼┼● ┼┼┼┼│ ┼┼┼┼│ 日子穗穗手見命者坐高千穗宮 伍佰捌拾歲 ┼┼┼┼│ 御陵者即在其高千穗山之西也 ┼┼┼┼│ <御陵比定地> ┼┼┼┼│ 国見山@肝付(大隅半島東部) ┼┼┼┼│ 野間岳@南さつま(薩摩半島南西部) ┼┼┼┼│ 高屋神社@宮崎村角 ┼┼┼┼│ <宮内庁治定地@国史>[天津日高彦火火出見尊陵] ┼┼┼┼│ 高屋山上陵(円丘墳)@霧島溝辺麓菅ノ口 ┼┼┼┼└┬● ┼┼┼┼┼● ┼┼┼┼┼│ <宮内庁治定地@国史> ┼┼┼┼┼│[天津日高彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊陵]吾平山上陵@鹿屋吾平上名 ┼┼┼┼┼│[御陵伝承地]@日南速日峯山上(鵜戸神宮背後) ┼┼┼┼┼└┬● ┼┼┼┼┼┼├┬┬┐ ┼┼┼┼┼┼❶ ┼┼┼┼┼┼┼❷ ┼┼┼┼┼┼┼┼❸ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼❹ ┼┼┼┼┼┼┼┼┼ (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |