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■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.16] ■■■
[380]河姆渡時代の2倍暦について
考古学的な知見はかなり集積されて来たので、「古事記」の記載を考える上でかなり参考になる。(もっとも、日本の考古学は、フェイク出土品の否定発言もできない体質だから、ママ信用すると危ない。と言っても、中華帝国は白髪三千丈大好きの人々だらけで、数字はあてにならぬことが少なくないから、こちらもご用心である。その上、画期的な発見の時期が文化大革命の真最中だったりするから、そこらもどこまで信頼してよいのか気になるところである。半島に至っては、古代情報は原則抹消の国で、ほとんど何も残っておらず、残存物があるとすれば、利益と政治宣伝用に改竄されているか、創作物と考えた方がよかろう。中華帝国と倭国の文書情報で確認できない物は参考にしない方がよかろう。)

・・・正確に言えば、「古事記」から、太安万侶が考えていたと思われる古代倭国社会の姿を想像すると、考古学から見えてくる社会像と合致してしまう、ということ。
ただ、どう考えるかは、ヒトそれぞれ。「記紀」として読みたい方々や、端から「古事記」は天皇統治用の創作とみなす人達だらけの社会だから、あくまでも異端の見解であることをおことわりしておこう。

今までも触れたことはあるが、特に注視しておきたいのが、約7,000〜4,500年前の"石斧・石鑿"時代、長江下流域の杭州湾南岸[越(首府:会稽/紹興)の後背地]の沖積低地に位置する河姆渡遺跡@浙江省寧波市余姚県
ここには、干闌式木造高床式住居集落があり、犬豚が飼われ、漆器が使われていて、骨製作業用具を用いた稲作農耕(水稲・陸稲中間種)が行われていたことが判明している。
しかも、それよりさらに古い時代の、長江中流域遺跡からも栽培稲が出土している。
(これらの稲には熱帯系遺伝子を有する日本列島のジャポニカ系が多い。半島からは未だに発見されていない系統である。)
この辺りから想定すれば、長江域では、すでに10,000年前に農業が成立していた可能性があろう。この石斧・石鑿使用時代に城壁都市が成立していたことも間違いなさそう。

「史記」では、夏〜殷〜周が中華帝国の始まりというトーンの記載なので、中原が文化的先進地であり、それを示す出土品が青銅器ということになっている。ところが、その核である鼎・豆・壺は、今や、河姆渡より後世の遺跡である良渚からの伝来と考えるしかない状況なのが現実。

・・・要するに、長江域は東アジアの文化の中心地だったということ。
倭人が越系と自称したとの漢籍の記述はその状況を考えると当然の姿勢と言えよう。

ただ、この辺りから文字使用の痕跡は発見されていない。
いずれ見つかると考えることもできないではないが、「古事記」から伺える倭人の性情を考えると、文字使用を避ける風土の社会と見た方がよさそうに思う。

さて、ここで唐突だが、中華帝国の古代の帝王を並べてみよう。細かなことはどうでもよいが、長命であることが特徴だ。・・・
  黄帝(前2711-前2599年)
  顓頊(n.a.)98歳
  嚳(n.a.)105 or 92歳
  堯(前2356-前2255年)118歳…儒教の聖人
  舜(n.a.-前2184年)101歳
  禹(n.a.)68歳
神話だから長命で当たり前と考える人もいようが、500歳という訳ではなく、125歳未満なら現代でもあり得る数字であり、いい加減に書いたものではなさそうなところに着目する必要があろう。
と言えば、何を指摘したいのかご想像がつくだろう。「古事記」の天皇も長寿命が多いのである。しかし、そんな筈がある訳もなく、2倍暦で計算した結果と考える説を採るべきという話はすでに書いた。
何故にそうなのかと言えば、東アジアの先進文化の地の暦がそうだったからである。稲作地域にとっての暦とは、植え付け時期が明確化できるものではなくては意味がなく、天文学的に決めることがプラスに働くことはないから、基本、地域の農業歴が使われよう。二期作可能な地なら、2倍暦になって当然といえよう。地域によっては3倍暦になってもおかしくないのだ。と言うことで、古代の帝王は、東アジアの標準である2倍暦で寿命が示されていると考えてよかろう。
(もっとも、中華帝国神話の上記の帝の対照として倭の日子穗穗手見命をとれば五百八十歳。比較意味無しとも言える。)

中華帝国の北方の天子としては、暦を支配する地位にあり、そのような長江域の異なるシステムの存在を語らせないようにしたので忘れ去られただけである。ただ、知る人ぞ知るだと思うが。
言うまでもないが、天文歴でなく、農暦使用の国は後進国とされるのである。・・・
 [「三國志」卷三十烏丸鮮卑東夷傳 倭人【裴松之 註】]
《魏略》曰:其俗不知正歲四節,但計春耕秋收爲年紀。
   立春〜立夏〜立秋〜立冬を天体観測で正確に定める暦法の知識を欠いており、
   春の初耕と秋の収穫を年の初めとする暦年を用いている。


さらに暦ということでは、東アジアの標準は太陰暦であると確信する。太陽暦は天文暦だが、太陰暦は自然暦そのものだからだ。宮に集合するのに、面倒な天文歴など使う訳がなく、誰でもわかる月の満ち欠けか、干満潮に決まっていよう。天子独裁-官僚独裁の帝国という国家体制を採用しない限り、自然暦になるのは当たり前ではないか。
「古事記」はそこらを示唆していると言ってよかろう。情報がある限り、崩御日が必ず記載されているが、どういうことか月の前半に偏るし、15日だったりするからだ。(13, 16, 19, 31, 33代)各地の王に、満月に朝廷に参集するよう命が下るシーンを髣髴させるではないか。太陽暦では簡単に日付はわからないから、中央集権システムが完備していないと運用は難しい。(数学脳の持ち主でないと太陽暦の管理はできない。「酉陽雑俎」では、天才的頭脳で有名な仏僧が暦を作成した話が収載されている。)

・・・実は、以上、どうでもよいことを書いているつもりはない。

太安万侶の洞察力の余りの鋭さに驚嘆しているのである。

倭国〜日本国へと時代は変わって行くが、「古事記」が示唆しているこうした社会の実相は、倭人の精神の根底に流れているものらしく、東アジア超古代2倍暦の正月行事が現代にまで伝承されているから恐れ入る。半島では今も南北共に儒教信仰が根底にあり、小中華主義王朝政治を渇望する人々だらけなのだから、ヒトとはそういう者なのかも知れぬとはいえ。

細かく説明はしないが、以下、国語辞典から引用しておこう。・・・上記の東アジア標準の最古の暦は、中華帝国では完璧に抹消されてしまったが、日本国ではそれを日本仏教が守って来たことがわかる。
 <谷川士清:「倭訓栞」1777-1877年 前編二十五 比
  ひがん@「古事類苑」歳時部十五>

[「大般若經」]即便前進得到彼岸
["般若波羅密會"@我邦上代]
  生死を此岸とし、
  涅槃を彼岸とし、
  波羅密を到彼岸と飜す
 ⇒七日の佛事、日本にのみ行はれ
  西土天竺はなき事成るよし

[「砥平石録」]春秋仲晝夜過不及
[「日本後紀」]國分僧に、春秋二中、月別七日、
   存心金剛般若經を轉讀せしむるよし

[「新古今集」]今こゝに 入日を見ても おもひ知れ
   弥陀の御国の 夕暮の空
   ⇒日沒觀の意

  :
[「夫木集」]けふ出る はるの半の 朝日こそ
   まさしき西の 方はさすらめ


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