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■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.17] ■■■
[381]淤能碁呂島は沼島
鵜飼については何回か取り上げているが、河姆渡と暦について想うことを書いたついでに、鵜飼についても綴っておくことにした。
両者ともに倭人の出自推測に係わることになるので。

すでに述べたが、長江域に残っているのは、文字が示すように飼い主と兄弟のようにして生活する川鵜で、無紐鵜飼漁となる。一方、日本の場合は内陸の河川域の伝統保存目的の観光業だからかもしれないが、有紐海鵜漁。(かつては無紐漁法も存在していたが。)種の名前が誤解を与えがちだが、どちらも淡水域・海水域の両刀使いである。
ヒトも同様だが、大陸型と海人島嶼型の文化違いは小さなものではなさそうである。

なんといっても。鵜の特徴は全身真っ黒な点。(海鵜をよく見ると、嘴の根本が黄色なので、正確には全身ではない。一方、川鵜は、光線の下限で、背側が黒と呼べそうにない色の個体も少なくない。)体形は異なるが、烏と同じ色である。烏は表記文字が異なるが読みはウである。

どうして、こんなことにこだわるかと言えば、河姆渡遺跡から"崇鳥敬日"をテーマとした小さな「双鳥朝陽紋象牙雕刻器」@浙江省博物館が出土したからである。明らかに鳳鳥であり、後世の良渚文化の"玉鳥"、越の青銅器の鳥装飾の大元ということになろう。古蜀も鳥崇拝があり、三星堆では青銅器・象牙に鳥紋が見てとれ、長江は上流から、デルタ中洲まで、鳥信仰で繋がっていたように見える。

そして、それは太陽信仰と不可分だったようなのだ。
「古事記」は見事に、倭の古層信仰にこの紐帯ありと指摘しているようなもの。ただ、発祥は海洋民であり、大陸民では無いことを、冒頭から全巻に渡り、高らかに宣言していると言ってよいだろう。
何といっても、よくここまで断言的に書いたものと敬服せざるを得ないのが、淤能碁呂島の記述。
この島だけは、生まれた訳ではなく、結婚するために男女神が協力して作ったと明確に描いているからだ。倭人は神の創作物ではないが、それを取り巻く国土や生物は神が生んだとされているなかで、一つだけ特別な島なのである。

その島はいかにも淡路島近辺らしいトーンで記載されているし、後世、淡路島から眺めることができたことが御製歌からわかるので、沼島は比定地としてピッタリ嵌る。
他に候補が色々とある訳だが、瀬戸海と大阪湾から外の岩礁的な島である筈なので、これ以外にはあり得ないと見る。
そのような環境こそが"崇鳥敬日"の海洋民の原初として相応しいからである。太安万侶の、淤能碁呂島から始まる国生みの記述は素晴らしいの一言に尽きる。儒教国家化の流れに抗して、古代の姿を伝えてくれているからだ。「古事記」はその点で東アジア唯一無二の書と言ってよかろう。
さて、沼島を比定する意味について簡単にご説明しておこう。

実は、日本列島には、海鵜以外にも姫鵜が生息している。(正確に記すなら、北方系の千島鵜烏も入るが、環境変化で南にも来るようになっただけで、考慮しないでもよかろう。)
現状での種間競争を考えると、姫鵜は絶滅の道を歩んでいると思われ、今では、おそらく滅多に見かけないだろう。しかし、古代はおそらく逆。箱庭的島嶼には小型が似合うからだ。鵜は岩礁小島に大群で留まる、一列で移行する修正があり、極めて目立つので、海人にとって、姫鵜群生状況はよく知られており、なかでも沼島はその根拠地的な場所だったと目される。
そう思うのは、姫鵜は燕同様に、渡り鳥的でもあり、燕が子育てで来訪する逆で、越冬に南下するのである。従って、姫鵜にとっては、沼島は他に代え難き要衝の筈である。
従って、沼島は日本列島の鵜の根拠地と見なされておかしくない。おそらく、現況からは想像もできないだろうが。
倭国の臍として、先ずは沼島を作ったという観念は極く自然なものということになろう。

沼島は中央構造線から南に外れており、おそらく砂泥岩からなり、ダンダラの岩が連なる特徴的な地質構造があると思われる。
"淤[水底澱]の碁[黒白石製の棋][背骨]の島"との当て字が使われたと見ただけだが。

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