→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.19] ■■■
[383][附]半島は 言語も政治状況も解明不能
「古事記」上巻のみに地名として<韓国>が登場する点について考えてみたが、色々な見方がでてくるのは致し方ないところ。
初代天皇即位以前の神話譚に対応する情報が残っていれば、すこしは考えることもできるが、それは無いもの強請りと言うべきだろう。 

朝鮮半島最古の文字資料は、儒学者の金富軾[編]新羅国官製史書「三国(新羅・高句麗・百済)史記」@1145年(本紀+年表+雑志[祭祀・色服-車騎-器用-屋舎・地理・職官]+列伝)…言語に絡む記述や歌謡は収載しない方針。
半島内資料を情報源と記載している箇所もあるものの、これ以前の残存書は1つたりとて存在していないから、執筆時点ですでに消滅していて、信頼性が乏しくても伝聞情報を加えることにした可能性が高い。
普通に考えれば、中華帝国から入手した漢籍情報に基づいて、小中華思想で、史記類似の歴史書を急遽作成した書ということになろう。
実際、三国以前の三韓時代や、三国時代の半島北東部のツングース系国家に触れていないらしいから、史書の体裁に達していない。中華帝国史書の辺境地区の補遺版としての位置付けに甘んじるしかなかったことを意味するようなものだから、儒者編纂の国史としては異例の構成と言ってよいだろう。
日本国史の成立時期は、口頭伝達を止めて漢文文章による統治に踏み切った8世紀。これに対して、この書は、12世紀成立と驚くほど遅い。倭と違って、早くから漢語ベースの儒教的文書管理による官僚統治が行われていたのだから、書であふれている社会の筈で、資料が完璧に欠落しているということは、徹底的な焚書を行って来たと考えるしかなかろう。
従って、この書は、地誌部分を除けば、中華帝国「史書」類に合致するように、急遽"創作"されたと見てよかろう。
・・・そう考えるなら、記載内容を参考にしても得るところはほとんど無いことになろう。

ところが、もう一書、「三国史記」に次ぐ古文献が存在する。漢文の私撰史書[高麗僧]一然:「三国遺事」。(1270年〜没年1289年の記述を弟子が14世紀初頭に渡り加筆後、刊行したとされているものの、高麗期の残存書は発見されていない。出版経緯不詳な李氏朝鮮期(16世紀)の版本が最古資料。)

こちらは元寇の頃に成立した書であり、超巨大国家元との連合軍を編成して日本討伐に向かうということで、儒教的国粋主義が盛り上がっていた状況に合わせてまとめられたことになろう。(「高麗史」によれば、1274年に、元朝/蒙古-高麗連合軍が対馬・壱岐に上陸し、島民殺戮後奴婢確保。さらに、博多湾上陸後戦闘開始。日本側に応戦準備が整っていたとは思えないが、すぐに撤退してしまう。…おそらく大陸の戦闘と違って、思いもよらず、昼夜間を問わない非組織的奇襲攻撃を受け続けたため、糧食ロジスティックもままならず、このままでは疲弊するだけで勝利の見込み無しと判断し、撤退したのだろう。この結果、高麗は富も武力も激減したに違いない。結果、1287-1356年の間は元に併合されてしまう。)

書名が、「三国史記」が取り上げていない点を記載したと感じさせるものなので、改訂版的なイメージを与えるが、中味からすれば、新羅仏教の意義を訴える書であり、史書とは言い難い。(王暦-紀異+紀異[新羅末代金傅大王/敬順王・百済・後百済・駕洛国+仏教史[法興-塔像・義解・神呪-感通-避隠-孝善])

要するに、阿弥陀・観音・弥勒等々の説話満載書ということ。当然ながら、その核は、仏教の霊験(有り得そうにない奇跡[奇異])で歴史がつくられたという筋。三国統一も仏教のお陰との主張が掲げられることになる。
と言っても、それを通じた教学書や思想書の類という訳でもない。教派思想に基づた歴史観が提起されているとは思えず、一般大衆向け仏教説話集を作ったのであろう。儒教社会であるから、著者のエスプリを効かせることはできないし、視野も狭く、「今昔物語集」の対極的様相の書と言えよう。
(日本では、道元が「正法眼蔵」@1231-1253年、日蓮が「立正安国論」@1260年を著した頃に当たり、半島社会とは雰囲気が全く違っていたことがわかる。)

このような状況を勘案すると、小中華思想の見地から、当時、巷で語られていた噂話を入れ込んだ手の書に近いと見ることもできよう。

ただ、この様な書ではあるものの、「古事記」同様のモチーフが描かれているとして注目されることも少なくないようだ。
駕洛国記、つまり金海加羅国史に建国神話が収録されていて(始祖王降臨神話+始祖王后海洋渡航神話)、この頃、祭祀が行われていた可能性が高いと見なすのだろう。だが、ねじれがあるのは明らかだから、こうした推測をママ受け取るべきでなかろう。繰り返すが、古代の伝承書皆無の状態で、元寇の頃に突然編纂されて登場してきた神話である上に、すでに書いたように、カラという言葉は日本語では訓的な用語。半島の現代対応語はハンだから繋がらない。

さらに、この書は、万葉仮名風の複雑な漢字表記の<郷歌>14首も収録されている点でも注目を浴びている。この朝鮮独自の歌は8世紀に謳われていたとの記録があるそうで、9世紀に歌集が編纂されたとしているが、どう考えても信用度ゼロである。
文化の伝承を考えると、詠まれた歌の断片の一つたりとも残っていない状況は考えにくいからだ。その上、朝鮮話語の口誦歌の文字表記方法が無かったのだから、漢字記載の歌集が存在している訳がなかろう。漢詩以外はすべて葬り去ってしまったが、独自の歌が存在していたに違いないということでは。<郷歌>は後世に作られた用語と考えるべきだろう。
と言うことで、ナショナリズム勃興に合わせ、僅かな数ではあるものの、断片的に口頭伝承していた歌を見つけて来て編集し、日本の万葉仮名の音訓表記方法を参考にして表記したと考えるしかなかろう。
(当時の朝鮮語の音節が倭語と同じとは思えず、万葉仮名の方法論のママ利用は難しかろう。…<郷歌>から朝鮮語の訓表記箇所を解明したくとも、母集団歌が僅少過ぎで、勝手に想像しているに過ぎない。この時代の朝鮮語は、母音の数の推定ができる資料そのものさえ揃わないのだから。地名からの読み取りはあてにならないし。 )
要するに、<郷歌>解読とはフィクションの世界。
その句法は独特にも見えるが、形式が整っていたのかさえ、なんとも言い難しなのだ。もっとも、一部を抜き出して、定型詩が存在していると考えることになっているらしい。

そんなことより、ここでの一番の問題は、仏僧による編纂という点。常識的に考えれば、その目的は仏教拡宣以外に考えられないが、仏教の志向が、儒教国の風土に合っているとは思えないからだ。従って、収録歌がママ伝統歌謡とは限るまい。
尚、<郷歌>はこの他にも仏教歌として見つかっているそうで、総計で25首。
  〇"普賢十願歌" 11首
    赫連丁:「[10世紀の高麗僧]大華厳首座円通両重大師均如伝」@11世紀
  〇「三国遺事」@1270-1289年 14首
数が少ないとはいえ、これだけでも、貴重な言語情報を含むが、繰り返すが、ここから古朝鮮語を推定するのは無理。
そもそも、半島は古くから3部族に分かれており、話語が複数存在していた。それに、ツングース系の高句麗語・中華南朝梁系語彙が混じる新羅語・自称夫余出自で中華東晋系語彙が混じる百済語・古代玄海灘や日本海沿岸(若狭辺り)の倭語方言の影響を受けた訛りが重層化せざるを得ない状況にあるのは明らかだし。従って、朝鮮語をどう定義するのかから始める必要があるが、それは政治問題に直結してしまうから極めて難しかろう。と言うか、3言語の差異自体が皆目わからないから、手の打ちようが無いといった方が当たっていよう。これでは現代語への系譜は描きようがない。言語としては曖昧な定義でお茶を濁すしかないのが実情だろう。
日本では鎌倉期に入っているのに、高麗の文書は漢語のみ。読み訓を使わない以上、公用話語も漢語しかありえない。それは、バイリンガルが普通だったことを意味しており、中華帝国との交易では大いに役に立った筈だが、表音文字使用を阻害し続けることになってしまうのは致し方あるまい。それに、儒教の宗族祭祀を最重要視する社会であるが故に、"あくまでも漢文"主義から離れるのは難しかったろう。倭のような女流表音文字使用や、漢文のレ点読みなど、もっての他だったに違いない。

----追記-----
古代の言語コミュニケーションがどうだったか、考えをまとめておこう。・・・
漢字文化圏では、文字は表音ではなく原則表意。このため、古代の話語を推定するのは容易ではない。
ところが、日本は例外的に、漢字を表音文字として使うことにしたので、古代の倭語がかなりの確度で読み取れる状況にある。このような手法が生まれ、使われるようになったのは「古事記」のお陰であると言ってよかろう。授業でそのような話を聞いた覚えは一度も無いが。

半島は、早くから、儒教一色に染めあがったいたためか、そのような手を使わずにいた。識字率が極めて低かったせいもあるのか、最終的には脱漢字=完全表音文字化の道を選んだが、その時期はほとんど近代に近い。しかも、驚くことに、日本の平安時代末期でさえ、半島には文字情報がなにも残っていない。その後、漢文の書がちらほらある程度でしかなく、朝鮮語については現代語から遡って古代を探求することは不可能である。特に、中華帝国の漢籍から、半島南半分で使われている朝鮮語自体が3種あるのは自明だが、どこが違うのか、現代語とどうつながるか、皆目わからず。仕方ないので方言を充てたりするが、ほとんどフィクションの世界でしかない。
古代倭語を含めて日本語と音が似ている語彙だからといって、由来が同じと見るのはお話としては面白いが何の意味もなかろう。少なくとも、基本語彙で見る限り、朝鮮語と日本語は同一語群に属すとは考えにくい。(それは、日本語とアイヌ語の関係にも当てはまる。)
文法的には類似と言えそうだが、それは倭語の成り立ちが、意思疎通し易い安易な話語構造になっているからと言えなくもない。中華帝国の文書ありきの社会での、統治に向く言語とは違うというだけかも。

要するに、朝鮮半島の支配者層は漢語常用のバイリンガルなので、朝鮮語についての関心が薄かったのだろう。
そのことは、中華帝国圏の国際港運を支える国としての地位を認められることになるから、利も多く、朝鮮語文字化の道を避けることになるのは自然な流れ。

言語だと、どうしても残存書と表記文字についてばかり着目しがちだが、古代の残存品は書以外にもあるから、文化全般も見ておく必要があろう。特に、遺跡出土品から"想定"できることは少なからず存在する。

半島では、倭の古墳時代の早期から前方後円墳がかなりの数造成されていると言われている。又、半島には存在しない高野槙製の棺も出土している。これらは、倭の葬儀文化流入を示しているが、その辺りの解釈は曖昧にされ続けている。半島文化が倭に伝播との解説だらけだが、一体、何がもたらされたのか、倭からは何が伝わって行ったのかはっきりさせる必要があろう。

「古事記」では、仏教伝来についてはもちろん触れないが、漢籍渡来ははっきり記載されている。これは明らかに太安万侶のご注意であって、公伝はこのように設定されていると書いてあるに過ぎない。朝廷としては、中華帝国の天子から漢字を御下賜頂いて、中華帝国圏の属国になった訳ではないことを示す必要があったということ。
常識的には、早くから漢字を使っていたことは出土品からもわかりきったこと。仏教公伝も同じことが言えよう。例えば、「今昔物語集」を読み解けば、公伝が聖徳太子系で、南伝が行基系。さらに、伝統の大陸の呉越との関係から流入したのが役行者系と考えるべしとなる訳で。

このような見方をするなら、100%想像であるが、「古事記」に記載されているように、渡来人は特別扱いされて当然ということになろう。もちろん、高度な専門家の招聘は中華帝国の伝統でありなんら驚くことではないが、それを記載することで、渡来人の部民集団を編成したことを特記事項として書いたのだと思う。
一見、倭で欠いている技術を提供したとか、開墾困難だった地を一変させる土木工事施工能力があったことで重視されているように映る箇所である。もちろん、その見方は間違いではないものの、その本質は、識字バイリンガルの高等難民で倭語にもすぐ熟達できた点にあろう。つまらぬように思うが、倭の支配層が忌み嫌う"汚れ"領域の仕事を平然とこなすことができるから、これほど重宝する人材は無かろう。

 (C) 2022 RandDManagement.com  →HOME