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■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.20] ■■■
[384]"くだら"と"しらぎ"について
半島の言語について書いてしまったが、その辺りはタブーが多いようなので、素人が気付いたことを書いておくことにしただけ。
聞くところによれば、言語名でさえ、ハングル語という訳のわからぬ用語を使わざるを得ない場合もあるらしく、書く場合は細心の注意が必要な領域らしいが、なにをどう注意すべきかを知らないので対処のしようがない。

ということで、百済と新羅の話をしておこうと思う。

<百済>は"くだら"と読むことになっているが、「古事記」には読み方の割註は一切記載されていない。
このことは語る必要もない程に、読みが決まっていたことになろう。しかし、漢字の音訓からは"くだら"とされる可能性はほぼゼロである。・・・
【百】
 [呉音]ヒャク
 [唐音]ハク
 [朝鮮音]payk
 [訓] もも ほ お
 [名乗]どう もんど
【済/濟】
 [呉音]サイ
 [唐音]セイ
 [朝鮮音]cey
 [訓] す-む わた-る
本来の文字からいえば、存在していたのは百済国ではなく、馬韓(50余国)内の1国 伯済國である。その地はクダにあり、倭国ではクダ国と呼んでいたようだ。
そこから、"くだら"という名称が生まれたと考えるのが一番説得力がある説と言えよう。
   居陀[クダ][=地名@馬韓伯済国]+[][=国土]

一方、<新羅>だが、こちらは漢字の読みで言えば"シンラ"しか有り得ないと思うが、一般には"しらぎ"としか読まない。その替え字も、白木だったりする位で、読みはほぼ確定していたと見てよさそうだ。
【新】
 [呉音]シン
 [唐音]シン
 [朝鮮音]sin
 [訓音]にい さら
 [訓] あたら-しい あら-た
 [名乗]あきら すすむ
【羅】
 [呉音]
 [唐音]
 [朝鮮音]la/na
 [訓] つらね-る あみ
こちらの場合は辰韓(12ヶ国)の1国斯國だったようだ。そこから、"しらぎ"という呼び名が付いたと考えられる。
   [][国名@辰韓]+[][=国土]+[][=村邑]
   "くだら"に合わせて盧を羅にすれば"しらぎ"である。

倭国が<加羅韓国>を弁韓(12ヶ国)辺りの諸国名としていた頃の、馬韓・辰韓という連合国家の代表的1地域の名前をそのまま踏襲していることになろう。
半島を"カラ"と呼ぶのは、鉄の調達を巡る角逐の地が加羅だったからだろうが、その後百済国と新羅国によって、加羅が半島から追い出され大挙して倭国に難民として移住したため、その名称が固定化し、百済・新羅も加羅の時代の呼び名が変わらずに使われることになった、と考えるのが自然だ。
(尚、日本で制作された須恵器の起源は考古学では伽耶土器とされている。技法は江南から伝来したと見られているが、渡来難民の可能性が高い。日本列島最古の陶邑窯跡群(朝倉[小隈+山隈]・八並)は北九州(筑前町)にある。)

新羅は大韓民国では、ほぼ祖とされているようで、素晴らしき世界に冠たる儒教国家と見なさないと非国民とされそうな雰囲気があるからイメージがわかり易いが、滅ぼされた百済の方はわかりにくい。小生など、どうせ王位継承のゴタゴタで終始する国ではないかと想定している以上ではない。
百済三書が逸文的に読めるので、日本人からすれば新羅よりわかり易い筈なのだが、読もうという気になったことは無いからであるが。

但し、この三書は、半島での滅亡後に難民として倭国に居住することになり、朝廷から整理するよう求められ作成したと考えるべき書で、史書とみなすことはできない。3書にする必然性に乏しく、増補要請でそうなったように見受けられ、どの書も政権に迎合的な記述がなされていると見て間違いあるまい。そもそも、半島の状況から考えると、安定した王権が確立していたとは思えないし、中華帝国官僚からの要請なしに史書作成を手掛けることは考えにくく、原書も無かったろうし。
現時点では、「日本書紀」収録の編纂資料としての断片しか残存していないから、ご都合主義的収録部分しか内容はわからない訳だし、残存部分の信頼性は低いと言わざるをえまい。(最初に、亡命した王権の祖を記載した「百済本記」が成立。次に、両国通交と任那侵攻経緯を著した「百済記」。そして、傍系王族系譜を示す「百済新撰」が編纂されたと考えるのが自然だ。)
従って、太安万侶の編纂方針を想定すると、百済国主照古王を登場させてはいるものの、それは「百済本記」情報ではない可能性の方が高かろう。

それにしても、半島に関する「古事記」記載方針は実にユニークといえよう。・・・
「好太王碑文」から見て、400年頃に、倭の半島南部への大規模侵攻があった訳だが、新羅遠征譚は極めて限定的で戦乱を感じさせない叙述になっている上、朝貢的ではあるものの友好関係が強調されているからだ。
しかも、[15]天皇段で、唐突に、新羅の国主の子 天之日矛の渡来譚が収録されていたりする。
  ([14大后]息長帶比賣命)
  故 備如教覺整軍雙船・・・爾 順風大起 御船從浪
  故 其御船之波瀾押騰新羅之國 既到半國
  於是其國王畏惶奏言:
  「自今以後隨天皇命而爲御馬甘
   毎年雙船不乾船腹不乾柂檝
   共與天地無退仕奉」
  故 是以新羅國者定御馬甘百濟國者定渡屯家
  爾 以其御杖衝立新羅國主之門
  即以墨江大~之荒御魂爲國守~而祭鎭還渡也
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  新良國主貢進御調八十一艘
  爾 御調之大使 名云金波鎭漢紀武
  此人深知藥方
  故 治差帝皇之御病…[19]弟 男淺津間若子宿禰命@遠飛鳥宮

ずっと後世成立で、中華帝国元朝の下で日本討伐で盛り上がった頃の朝鮮の史書は信用度は低いものの、新羅の見方はわかる。両国関係は戦争含みが基調で、交誼が見られるのは例外的。従って、太安万侶は何を慮っているのか考えてしまうことになる。
しかし、考えてみれば、倭は<カラ〜シロギ>感覚のママと指摘しているも同然。それに対して、新羅はいかに中華帝国を動かして小中華帝国を作り上げるかに腐心し続けているということでもある。ずっと後世とはいえ、ようやく倭並みに中華帝国と付き合える地位を獲得すると、早速、半島初の国を<シンラ>と規定し、元朝の力を借りて日本討伐と大いに盛り上がった社会である。
そのような儒教の小中華思想を嫌った、権謀術数ではじかれたか、敗残者が日本に渡来したということであろう。(朝鮮半島では、宗族の数が極端に少なく、少数人口の宗族は消滅の道を辿ったことがわかる。逃げ場は日本列島しかない。)そんな状態だとすれば、両者の交誼は形だけのものになるのは当たり前。
その辺りに気付かず「古事記」を読んでも得るところは無いということ。

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