→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2022.1.29] ■■■
[393]"和魂"の表象は3に共食
「古事記」では、伊邪那美命が黄泉神と"黄泉戸喫"をしてしまったから黄泉国から作った葦原中国に帰還できないと伊邪那岐命に語る。成程、これが共食ということかと知らされる。
倭の食事の特徴は、「魏志倭人伝」によれば、夏冬でも生野菜で酒好き。手掴みとされるから、炊いた穀類を取り分け用具を用いて、高杯の葉野菜に盛って食べていたのだろうか。団子類も好まれていたと見てよさそう。
宴行事では葉皿のようだが、高坏は"神人共食"正餐かも。
  太后(石之日賣命)爲將豐樂 而 於採御綱柏幸行木國

現代の宴としての共食は、行事次第が終わってからの懇親あるいは出席労いの"打ち上げ(後儀)"会合のように受け取られているが、本来的には行事の中核たる本儀あるいは前儀とされるべきもの。神を喜ばすための神饌を奉納し降臨して頂き、神々との交流共食を行うのであるから。
変わってしまったのは、中華帝国の祭祀様式が取り入れられ、料理(熟)の代わりに食材(生)を神饌奉納とするようになったからか。

震旦の場合、神饌奉納とは違い、神から権力等を頂戴するための貢物になる。天帝や宗族祖が喜ぶのは覇権掌握だろうから、鳥獣・敵対者を生贄として捧げていたと見るべきではなかろうか。当然ながら、儒教的合理主義からすれば、こうした奉納に対しては正当な見返りを要求することになろう。
食の儀式は、おそらくこの発展形であり、組織秩序を確認する場として設定されることになろう。(飲食の服属儀式化)
文字的には祭礼の宴で同義であっても、根幹たる意義が異なっているのではないか。
 《嘗》
  [音]ジョウ ショウ (=口味⇒秋天祭の1つ)
  [訓]な-める こころ-みる かつて
  [当訓]なふらい(嘗め合い) (=直会)
 《饗》
  [音]コウ キョウ (=郷人飲酒⇒祭礼)
  [訓]あえ(=神に供す) もてな-す う-ける
    新饗/にひのあえ⇒新嘗

このような共食概念があるから、宴席での殺戮に意味があると言えなくもない。・・・
<~倭伊波禮毘古命>
  天~御子之命以饗賜八十建
  於是宛八十建設八十膳夫
  毎人佩刀誨其膳夫等曰:
  「聞歌之者一時共斬」

<小碓命>
  於是 言動爲御室樂設備食物
  故遊行其傍待其樂日
  :
  熊曾建兄弟二人 見感其孃子坐於己中而盛樂
  故臨其酣時 自懷出劒 取熊曾之衣衿

<[伊呂弟] 水齒別命>
  爾多祿給其隼人曰:
  「然者殺汝王也」
  於是 曾婆訶理 竊伺己王入厠以矛刺而殺也
  :
  是以 詔曾婆訶理
  今日留此間而先給大臣位 明日上幸
  留其山口 即造假宮忽爲豐樂
  乃於其隼人賜大臣位百官令拜
  隼人歡喜以爲遂志
  爾詔其隼人:
  「今日與大臣飮同盞酒」
  共飮之時 隱面大鋺盛其進酒
  於是王子先飮隼人後飮
  故其隼人飮時大鋺覆面
  爾取出置席下之劒 斬其隼人之頸


もちろん、中華帝国でも宴席と暗殺は古くから語られているものの、倭とは違うのでは。
<夏朝中期"商"首領 王亥 商行
 ⇒有易国王綿臣"豐盛料理"宴会
  ⇒刺客惨殺酔睡王亥> 
@司馬遷:「史記」殷本紀第三"竹書紀年"
<【鴻門の会】項羽策略
 ⇒劉邦準備
  ⇒宴会開始
   ⇒"項荘舞剣 意在沛公"
    ⇒劉邦脱出> 
@司馬遷:「史記」項羽本紀第七

天竺の場合、族内婚なので、食を共にできる階層や職業についての細かな制約がある筈だが、実際にどうだったのかは見当がつかない。
このような風習の社会であると、神との共食はまずあり得まい。叙事詩に基づく偶像礼拝が儀式の核だろうから、基本は神への料理奉納で崇拝の姿勢を示すことにあり、神饌を食す意味は薄いと思われる。
社会の階層は固定化されており、職業も世襲であるから、宴席を設けてヒエラルキーを確認する必要もなさそうだ。
ただ、提供する神饌にメッセージ性があってもおかしくないから、奉納所作にはこだわりがあってしかるべきだと思う。

 (C) 2022 RandDManagement.com  →HOME