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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.5] ■■■
[428][安万侶サロン]大虐殺万歳譚
太安万侶は、皇統譜だけでも、大毘古命をなかなかの立役者として扱っていると見たが、さらに地名譚を5つも収録している。
正確には、副官がメインの武闘話ではあるものの。

越の道に派遣さ、子は東方十二道と、平定に大活躍したから、その雄姿を描く基本パターンなのかも知れぬ。しかし、それにしては、どうでもよさそうな場所の名前でしかなく、名所旧跡の類に該当している形跡も無さそう。
と云って、倭建のように、歌謡として人気を集める英雄像に仕立てるつもりなら恋とか悲劇的見せ場があってもよさそうだが、淡々と殺戮による制圧を進めていくだけ。

しかし、[安万侶サロン]的解釈なら、≪大毘古命+丸邇臣之祖日子國夫玖命 v.s. 建波邇安王興軍≫こそが中央朝廷勢力にとって結節点的戦いであり、初代天皇が大阪湾から大和へ入る歌謡と同じようなものということになろう。
≪大毘古命+丸邇臣之祖日子國夫玖命 v.s. 建波邇安王興軍≫
故 大毘古命罷往於高志國之時
服腰裳少女立
山代之幣羅坂 而 歌曰・・・
 :
即 副丸邇臣之祖日子國夫玖命而遣時
即 於
丸邇坂居忌瓮而罷往
於是到山代之
和訶羅河時 其建波邇安王興軍待遮 各中挾河 而 對立相挑
故 號其地謂【伊杼美】 <今謂【伊豆美】也>
 :
爾 追迫其逃軍到久須婆之度時 皆被迫窘而屎出懸於褌

故 號其地謂【屎褌】 <今者謂【久須婆】
又 遮其逃軍 以斬者如鵜浮於河
故 號其河謂【鵜河】
亦斬波布理其軍士
故 號其地謂【波布理曾能】

重要なのは場所感覚。上記について、ザッと見ておこう。・・・
【伊杼美⇒伊豆美】とは、740年に行基が木津川/泉河に架けた泉大橋あたりだろうか。
【屎[糞]褌⇒久須婆】は樟葉しか該当地名がなさそうだ。
【鵜河】は、どこにでもありそうな名前であり、上記の2点はかなり離れており、鵜が集まりそうな地を推定するのは難しそう。
最後の【波布理曾能】は耳慣れない音の地名だが、"はふり"園/苑と解釈するしかなさそう。だからと云ってそんな地がすぐに見当る訳がないが。ただ、漢文字については確認しておくとよい。
<はふ-る/ほふ-る>
 <屠る>…身体を切り裂き放り投げる。
 <放る[ほう-る はなれ-る]…捨て去る。 【はなつ】
 <葬る[ほうむ-る]…遺骸を埋める。 【はふり】
 <祝る>…罪や穢れを"はふり"清める。【いわい はふり のりと】
    ---
   <溢る[あふれ-る]>
   <羽振る≒翥(䬡)る[あが-る]>

これだけでは、どうにもならないが、眺めていると、太安万侶が描いている全体像はいたって単純であることがわかってくる。
関係していそうな残存神社を宮から真っ直ぐに北へと辿れば、それはまさに上ッ道であり、木津川の津に到達するからである。・・・
▼樟葉…合流点要衝の地
(木津川下流へ)
祝園[ほうその]神社@相楽精華祝園"[ほほそ]ノ森"(木津川沿い)
---泉木津@木津川/泉河 or 山背川…おそらく木材運搬拠点。
↑(相楽[さがなか]神社@木津川相楽清水:木津川支流の山田川沿い
幣羅坂神社@木津川市坂(御祭神:天津少女命 大毘古命)
奈良豆比古神社@奈良奈良阪(創建771年)
(佐保)
(春日)
↑(和邇/丸邇)…丸邇臣本拠地
↑ 和邇坐赤坂比古神社@櫟本(御祭神:阿田賀田須命/和爾神)
(石上)
行燈山古墳@天理柳本=山邊道勾之岡上御陵
志貴御県坐神社@桜井金屋=師木水垣宮
すぐに気付くのは、読みが通常とは違う点。
そうなのである、"祝"園は"ほうその"との呼称だが、どう考えてもこれは"はふり"園のこと。
<社伝>によれば、討伐された武埴安彦命の悪霊が荒らし廻ったので、770年に鎮霊行事を行ったとのこと。伝承祭祀は【居籠り祭(風呂井の儀+御田の儀+綱引の儀@武埴安彦破斬旧跡"出森")】である。
この上ッ道と淀川水系は、中央朝廷からすれば生命線であり、独自性を発揮する勢力に牛耳られるような事態は絶対阻止しか無い。徹底的な殲滅戦を展開するのは当然と云えよう。


ところで、上記に相樂という、一連の地名譚に登場しない神社を加えているが、別譚で登場してくるので、ついでについつい掲載してしまった。・・・
≪圓野比賣≫
於是圓野比賣慚言 同兄弟之中以姿醜被還之事聞於隣里是甚慚 而 到山代國之相樂時取懸樹枝而欲死
故 號其地謂【懸木】 今云【相樂】
それにしても、相樂を"さがなか"と読むとはビックリ。山代國の大和國と接する地域は相樂郡だし、弟國は乙訓郡だろうと気にもかけなかったが。この神社だが、もともとは産土神を祀っていたそうだ。そして、境内末社で以下の4柱を祭っている。これを単純な付会とみなすことに躊躇せざるをえまい。・・・。
 松枝神社…長女 比婆須姫命
 子守神社…次女 弟比売命
 清水谷神社…三女 歌凝姫命
 島懸神社…四女 円野姫命

もっとも、一番わからぬのが、山代之和訶羅河という訳のわからぬ名称である。"木津川/泉河 or 山背川"はよく知られているが、意味不明。どうもこの川はそれぞれの場所で、加茂・笠木・伊賀等々と、勝手に地元地名で呼んでおり、バラバラ。ワカラに多少近いかもしれない地名としては和束しかない。
結局のところ、"木"津の重要性が高まり、朝廷の意向で以後は木津川になったのだろうが、それは大和川水運から、淀川-木津川水運へと変わっていくことを意味しよう。ワカラはそこらを示唆する言葉かも知れない。

そうそう、いかにも太安万侶らしいのは、地名譚は後世の付会であることを示すような話を付け加えているところ。
≪建沼河別+[父]大毘古命≫
如此平訖 參上覆奏 故 大毘古命者隨先命 而 罷行高志國 爾 自東方所遣建沼河別與其父大毘古共往遇于相津
故其地謂【相津】
この話はえらく人気が出たらしく、会津の由来として定着したようだ。おかげで、全国、さまざまな名付けの工夫がなされ、各々目的が微妙に異なるため、時代性が読み取り難く、地名から伝承を読み取ると大間違いという例だらけになってしまった。
言うまでもないが、フツーの頭なら、ココの地名で出会うのは、父子の征伐軍ではなく、河川となる。源流域に膨大な積雪量を抱えている川だらけの地だから、毎年洪水だろう。ただ、河川が交通路だったろうから会津若松の湊を指すと思われるが。
  阿野川(源:荒海山)
  闇川
  大川 佐賀瀬川 尾岐川
  ├──┴─────┴宮川
  │┌湯川
  ├┴日橋川(源:猪苗代湖)
  濁川
  只見川(源:尾瀬ヶ原)
  常浪川
  越後平野
  阿賀野川(河口:新潟松浜)

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