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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.8] ■■■
[431][安万侶サロン]山邊之道一瞥
冷静になって考えれば、<山邊之道>は"日本国現存最古の道"とは、観光用キャンペーンの類である。
「古事記」の御陵名になっているだけで、その後、現代に至るまでこのルートにハイライトがあたったことはおそらくないと思う。公道は上ッ道であり、わざわざ山側を通ろうというのは奇特な人しかいない筈で、現代に入って知られるようになったのはまず間違いなく山歩きが一般化して来て、天理から桜井に抜けるハイカー向けの全長約35Kmのコースとして人気が高まったから。
テキトーに並べてみたが、こんな地誌感だろうか。・・・
≪大宅≫
≪櫟本/櫟韋≫楢 蔵之庄 森本 中之庄 和爾
      [43]【御製】矢河枝比売を迎えた大御饗酒宴での喜びの発露
      ・・・櫟井の 丸邇坂の土を 初土は 膚赤らけみ 底土は に黒き故・・・

  豊田丘陵:ウワナリ塚110m🈝 石上大塚107m🈝
   ⊥杣之内古墳群:西山183m[前方後方下層前方後円上層]🈜 小墓92m🈝 西乗鞍120m🈝 東乗鞍75m🈝
  内山永久寺跡
  石上寺跡
布留川-------------∬布留瀧
石上神宮     △《福住・都祁/黄楊》長滝 ⛩都祁水分神社
[攝社]高龗神社
夜都岐神社
戦国期環濠集落:竹之内(北側) 萱生(南側)
大和神社
⊥大和古墳群:西殿塚234m🈠 東殿塚175m🈜 クラ塚144m[円] 波多子塚140m🈜 矢ハギ120m[円] 栗塚120m 中山大塚120m🈠 下池山120m[前方後方] 西山塚120m🈝 フサギ塚110m[前方後方] 馬口山110m🈜 燈籠山105m🈜
∴石仏群
∴五智堂
菩提寺
長岳寺
⊥柳本/楊本古墳群:櫛山150m[双方中円] 渋谷向山302m=山邊之道上御陵🈜 行燈山242m=山邊道勾之岡上御陵🈜 北アンド山120m 上の山144m[円] 黒塚128m🈠 大和天神山113m 石名塚111m🈜 柳本大塚94m🈠
   渋谷
⊥萱生古墳
⭖敏達天皇譯語田幸玉宮跡
穴師兵主神社
   車谷
巻向山
珠城山53m
∴相撲遺阯
⭖景行天皇巻向日代宮跡纒向之日代宮
⭖垂仁天皇巻向珠城宮跡磯城之玉垣宮
⊥纒向/巻向古墳群:箸墓276m🈠 纒向勝山110m🈜 東田大塚110m🈜 纒向矢塚96m🈜 纒向石塚96m🈠 ホケノ山80m🈜
⊥茅原大墓86m[帆立貝]
井寺池
檜原神社
∴玄賓庵
∴神武天皇聖跡
狭井川
狭井神社
磐坐神社
活日神社
大御輪寺跡
∴三輪茶屋
[摂社]大直繍子神社
大神神社
三輪山
⛫三輪城跡
平等寺跡
∴金屋石佛
志貴御縣坐神社
⭖崇神天皇磯城瑞籬宮跡師木水垣宮
∴海石榴市
∴仏教伝来碑
〜〜〜初瀬川(大和川上流)
伊波禮[いはれ]/磐余[いはよ[レ]]=石邑/石寸[村][いわむら]
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【注:現在の地名】《石上》仁興/二郷 苣原 [桃尾]滝本 馬場 布留[大神の地](高橋) 豊日神の地 [川の]三島 [北川]豊田 岩屋ヶ谷 田部 別所   《朝和》佐保庄 三昧田 福知堂 永原 長柄 兵庫 新泉 岸田 中山 成願寺 萱生 竹之内 乙木 園原


全体を眺めると、石上神宮と大神神社に祭祀場の塊があるようだが、古墳は前者が倭に集まっているようであり、そこらが最初に開けた印象を与える。地名としては布留川域になる。地形的に、いかにも小洪水が発生しそうな流域であるから、石とされているものの岩というイメージではなく磯の情景が当たっていそうだ。文字では、石"上"となっているが、意味的には"神"の方がふさわしかろう。
だからこそ、地名"ふる"が歌の表記では<振る>になる訳だ。"石上"という言葉は事実上その枕詞。・・・
[「万葉集」巻三#422]石田王卒之時丹生王作歌一首[并短歌]反歌
石上 振の山なる杉群の思ひ過ぐべき君にあらなくに
[「万葉集」巻四#501]柿本朝臣人麻呂歌三首
娘子らが 袖振山の 水垣の 久しき時ゆ 思ひき吾れは
[「万葉集」巻四#664]大伴宿祢像見歌一首
石上 降るとも雨に つつまめや 妹に逢はむと 言ひてしものを
[「万葉集」巻六#1019]石上乙麻呂卿配土左國之時歌三首[并短歌]
石上 振の命[尊]は 手弱女の 惑ひによりて 馬じもの 縄取り付け 獣じもの 弓矢囲みて 大君[王]の 命畏み 天離る 鄙辺に罷る 古衣 真土の山ゆ 帰り来ぬかも
[「万葉集」巻七#1353]寄稲
石上 振の早(稲)田を秀でずとも縄だに延へよ守りつつ居らむ
[「万葉集」巻#1768]氣大首任筑紫時娶豊前國娘子紐兒作歌三首
石上 振の早(稲)田の穂には出でず心のうちに恋ふるこのころ
[「万葉集」巻九#1787]天平元年己巳冬十二月歌一首[并短歌]
虚蝉の 世の人なれば 大君[王]の 命畏み 敷島の 大和[日本]の国の 石上 振の里に 紐解かず 丸寝をすれば 我が着たる 衣はなれぬ 見るごとに 恋はまされど 色に出でば 人知りぬべみ 冬の夜の 明かしもえぬを 寐も寝ずに 我れはぞ恋ふる 妹が直香に
[「万葉集」巻十#1927]問答
石上 振の神杉神びにし 吾れやさらさら 恋にあひにける
[「万葉集」巻十一#2417]寄物陳思
石上 振の神杉 神さぶ[成]る 戀をも我は 更にするかも
[「万葉集」巻十二#2997]寄物陳思
石上 振の高橋 高々に 妹が待つらむ 夜ぞ更けにける
[「万葉集」巻#3013]寄物陳思
吾妹子や 吾を忘らすな 石上袖振川の 絶えむと思へや

山麓の道であるから、山の形が見えるとは思えず、地形図的な認識があるとは思えないし、川の流れや岩は毎年の豪雨期で姿を変えることになるから、大雑把な植生が地名になっていておかしくなかろう。
言い換えれば、そのような地域では、地名譚とはその地に住んでいる根拠を示す唯一の"証拠"であり、生きていく上でとてつもなく重要な伝承であり、その力を維持するためには時代に合わせて変える必要があるのは当たり前。ちなみに、上記から判断すれば、山ノ辺の道の植生表現は以下のようになっているようだ。・・・
本/森本:"櫟井/柞井"[≒一位]
之内(用材山林)
""@石上神宮
本/楊本
生古墳
"高野槇"[≒真木]…纒向/巻向

原神社
"山百合"…狭井川(初代婚姻@葦原の穢しき小屋)

【付言】実際に歩けばすぐにわかるが、現代人が"山辺"的風景を感じるのは、石上神社からかなり南行し、農地域に入り山裾を辿っている感を味わうところ。一方、"山邊"の古代風景を胸に刻まれるのは長岳寺から2つの御陵にかけての部分でしかない。この先の、巻向、狭井、大神神社に一体感を覚えることはなく、頭で三輪山山麓を歩いていると考えているにすぎない。そして、初瀬川に到着となる。(この様に感じることができるか否かは、実は結構重要。巨大御陵がここまで守られてきたのはおそらく墓守の存在が大きいが、それは社家とは無関係。その人達を支えて来たのは仏教信仰の可能性が高い。その辺りは「今昔物語集」を読んでわかったことだが。御陵の傍にあるのは、衰退の姿を示すものの、唯一抹消を免れた、小さな山門のお寺。ここで素麺を頂くことこそが、山ノ辺の道の観光の核心なのである。)・・・神仏混淆時代が長きに渡っているにもかかわらず、その跡が全くわからないほど抹消されており、この道の実態がどうだったかはさっぱりわからない。現代も、古代同様に、生きていくためには、地名譚の工夫は怠たり無しということ。

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