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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.12] ■■■
[435][安万侶サロン]市辺押磐皇子墓について
⑳穴穗御子/安康天皇@石上之穴穗宮段に、琵琶湖東南部で行われた、おそらく、仏教的な意味ではない「薬猟」での出来事が収録されている。
ここをどう読むかは、結構厄介なので、取り上げておきたい。

地名は、淡海 久多綿 蚊屋野。…"蚊屋の森"@蒲生日野鎌掛(北砂川蚊屋野橋に地名が残る。)
遊猟歌を詠んだりし、成果を称えて寿ぐ、天皇主催の宴をそろそろ開催しては如何という、いつも通りのご報告で話は始まる。そこに意図的なものがあるというトーンで書かれている訳ではない。
  韓帒(淡海 佐佐紀山君の祖)曰:
  「淡海之"久多"綿之蚊屋野 多在猪鹿」
   …沙沙貴神社@近江八幡安土常楽寺近辺

開催が決まれば、皆、装束も華やかに、壮麗な儀式の参列者としての気構えで集合することになる。臣にとっては、そこは、朝廷に於ける一種の序列確認と、任官・官位昇進の情報交換の場でもあろう。
にもかかわらず、この場合、どうも天皇不在での御猟が設定されたようだ。そこで、即位していないにもかかわらず、天皇然とした態度で猟に臨んだのが市辺之忍歯王。
問題は、㉑大長谷王も皇嗣可能である点。実際、両者ともに現地に仮宮を設置したのである。当然、寿ぎの場というより、対抗意識剥き出しの場と化すことになろう。
翌朝、市辺之忍歯王ははやばやと狩に出立。平然とした姿勢を誇示し(平心隨)乗馬姿で、いかにも天皇然とした態度で、大長谷王の仮宮に立ち寄り、仮宮の御伴人に"詔"を下し、騎乗のまま去って行った。
当然ながら、このことは、大長谷王に、"宇多弖"な物言いをされましたと報告され、皇位継承者たることを告げたに等しいのでこれから一波乱あっておかしくないのでご用心のほどとも。
そうなれば、先手必勝であり、無礼者即時成敗という、大長谷王の感覚が一気に立ち上がる。
すぐに追いかけて射殺し、身体を切り捨て、馬樎(=馬槽[飼い葉桶])に放り込んだ上、卑なる者の扱いとして、墳にせず土中に埋めてしまった。

しかしながら、市辺之忍歯王は「播磨國風土記」美嚢郡では天皇称号が付与されている。自他共に、皇位継承者然として活動していたようである。
  於奚[仁賢] 袁奚[顯宗]天皇等 所以坐於此土者 御父市邊天皇命 所殺
  於近江國 摧綿野之時 率日下部連意美 而 逃來 隱 於惟村石室


惨たらしく殺害された市辺之忍歯王の御子 ㉓袁祁之石巢別命/顕宗天皇は、遺骸を探し出し、蚊屋野之東山に御陵を作り葬った上で、韓帒の子等に御陵を守らせることに。
もともと、韓帒の佐佐紀山君とは、サザキ[雀]部職の氏族であるから、地場氏族化しており、お手の物。
   [宮内庁治定]磐坂市辺押磐皇子墓@東近江市辺 古保志/壊塚(円墳2基)
(「古事記」とは皇子の表記が異なるが、埋葬後発掘され、歯がIDとなったことを示したいか否かの違い。<押歯(=八重歯)⇒忍歯 or 押磐>)
しかし、その直後に、"然後 持上其御骨也"との記述がある。改葬したのだろうが、新造成地には一切触れず仕舞い。このことは、即位したものの、奈良盆地内に父の御陵を造成させる力は持っていなかったことになろう。
   [長野義言:「市辺忍歯別命山陵考」嘉永二年:改葬墓比定地]
    神崎郡御園郷妙法寺村山陵(熊の森古墳[前方後円])

言うまでもないが、父を殺害した恨みから、即位できたので、御陵破壊の詔を発したが、それが無理筋なのは当たり前。
結局のところ、かくまってくれた地への恩返しと、父の遺骨発見者を厚遇すること位しかできなかったのである。

皇統断絶の危機に遭遇して、ピンチヒッター的に起用されただけで、実権はあくまでも崩御した天皇を支えて来た人々にある。血族的には市辺之忍歯王の女系だけが頼りだが、先代天皇の統治に適合してきたからこそ力を保っているだけのこと。そこらを十分に理解していた、現実直視タイプの兄とは違って、弟はそこらでかなり無理をしたともいえよう。兄がカバーしたのでどうにか成立していた状態と見るべきだろう。それに、先代の統治を支えてのは、治安部隊だろうから、皇嗣とされる兄がいる以上、弟の今上天皇はいつ暗殺されてもおかしくない筈。

後背勢力を欠く以上、即位したからといって、先代の築いた基盤の上に乗る以上のことはできかねるのは当たり前で、兄はその路線で進んだことになろう。と云っても、朝廷内での勢力争いは熾烈。ボナパルティズムで行くしかなかろう。

「古事記」はそこらがわかるように記述しているのである。

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