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■■■ 「古事記」解釈 [2022.3.21] ■■■
[444][安万侶サロン]膝枕は仏典由来だろうか
「今昔物語集」は院政期成立だから、「古事記」より相当に新しい作品だが、仏典や伝承譚集からの引用が秀逸で、いかにも知識人らしく仏教の宗教活動の実態や、仏教協議とは無縁な人々の生きる姿を描いているので実に面白い。インターナショナルな視点から、周到な作りこみがなされており、政治的リスクを勘案しながら、結構、危うい内容まで踏み込んだ類稀な書である。
小生は、そんな編纂姿勢は「古事記」に倣っていると見る。

ただ、「今昔物語集」は仏教が前面に出されているが、「古事記」は後面どころか、一切の情報が除外されている。その点では180度異なる。
しかし、それは太安万侶が反仏教であった訳ではなく、仏教公伝的な記述を嫌ったことも大きかろう。それ以前から仏教は流入していたと考えていれば、だが。
・・・と云うか、おそらく、安万侶サロンに集う人々は「法華経」提婆達多品の話を早くから知っていたので、インターナショナルな視点の重要性に気付いていたに過ぎない、と云う事。
(直接的な文献は経典ではなく、解説書とか百科辞典の引用文の可能性の方が高いが。)

こんな話をするのは、太安万侶は僧旻・釈寶[撰]:「經律異相」516年(経・律の散説を整理した百科事典)をかなり参考にしているとの説が人気らしいからだ。(3次情報と思しきレベルでのネット記載に基付くので、どの様な説かはあやふや。ご容赦のほど。)
小生の考え方は全く異なるが、太安万侶は経典知識が豊富であり、仏典用語を使ったとしても驚くにはあたらないという点では同じである。

ここらの見方の違いは、"鰐と兎"譚をどう扱うかという問題とよく似ている。この突然挿入されている話が、たとえ仏教原始経典収載譚モチーフとほとんど同じだったとしても、そこから引用したということにはならないというのが、小生の考え方だからだ。あくまでも、両者の源流は同じと考えるだけのこと。
本邦伝承譚には、南方海人由来が結構見られるが、それは天竺譚でもあることが多い。根はスンダ域ではないかという気がするが、どこであれ南方海人の話である。釈尊の主活動領域であるガンジス中流発祥と見なすことは無理である。そこに海神など存在しているとは思えまい。
太安万侶達は、早くからこのことに気付いていた筈。

南九州に於ける天孫族と隼人族との婚姻譚は天皇家のルーツとして記載されており、その辺りの伝承譚はいかにも南方海人らしさを感じさせるもの。それらには、インターナショナルな共通性があるモチーフが含まれている。典型は、上巻での石長比賣を返す話や木花之佐久夜毘賣の火中出生譚はその手の話に入るとなれば、天竺にも同類の話があってしかるべきであり、これらと似た話が仏教説話に入っていておかしくない。つまり、「古事記」所収譚と伝来仏教譚に類似性が見つかってもなんら驚くようなことでもない。そのようなものとして、「經律異相」巻四十五"女庶人部"地獄七 瞻婆女人身死闍維于火中生子"
さらにつきつめれば、南海の海王の観念にしても、地場伝承話が説教譚に再編されていると考えることも可能である。
・・・文殊菩薩が娑竭羅竜宮@大海往還し、竜王女が出奔し成仏でき、一宝珠を仏に奉上。

ただ、「經律異相」の多大な影響ありと考える理由は、こういう話ではないのかも。
南方海人伝承には関係が無い、中巻11代天皇段の記述を指摘しているのなら。

大和国内出身と思しき皇后の<膝枕>(漢語ではなく、日本語からの漢字翻訳語。)シーンがあるからだ。
------[「經律異相」巻三十二]"行菩薩道諸国王子部"
王因下馬解剣以授長生曰:
「我甚疲極汝坐我欲
枕汝膝卧。 」
長生抜剣欲殺貪王。思其父勅内剣而止。如是三過。
王便驚寝問長生曰:
「我夢見長寿王子欲来見害。 」
長生曰:
「是中強鬼来相恐耳。 」
最后云:
「原殺。 」
長生曰:
「我即長寿王太子故来欲殺大王。
 我父臨死苦嘱莫報王怨。我思父教投剣於于地以従父勅。 」

------[「古事記」中巻]伊久米伊理毘古伊佐知命@師木玉垣宮
此天皇以沙本毘賣爲后之時・・・
爾 沙本毘古王謀曰:
「汝寔思愛我者將吾與汝治天下」
而 卽作八鹽折之紐小刀 授其妹曰:
「以此小刀刺殺天皇之寢」
故 天皇不知其之謀 而
枕其后之御膝 爲御寢坐也
爾 其后以紐小刀爲刺其天皇之御頸 三度擧
而 不忍哀情不能刺頸 而 泣淚落溢於御面
乃 天皇驚起 問其后曰:
「吾見異夢 從沙本方暴雨零來急沾吾面
 又 錦色小蛇纒繞我頸
 如此之夢是有何表也」
爾 其后以爲不應爭
卽白天皇言:
「妾兄沙本毘古王問妾曰:
 "孰愛夫與兄"
 是不勝面問故妾答曰:
 "愛兄歟"
 爾 誂妾曰:
 "吾與汝共治天下 故 當殺天皇"云 而
 作八鹽折之紐小刀 授妾
 是以 欲刺御頸 雖三度擧哀情忽起 不得刺頸 而
 泣淚落沾於御面 必有是表焉」
爾 天皇詔之:
「吾殆見欺乎」


確かに、類似語彙が並ぶし、表面上類似の展開に映らないでもないが、両者のモチーフは根本的に違うのではあるまいか。

「古事記」譚のここでの肝は、殺人未遂に終わった皇后の涙であり、それに、殺されかかったにもかかわらずいつまでも別離にあきらめきれぬ天皇の"愛"との交錯が華を添える。仏教譚には出て来そうにない話である。
そもそも、仏教経典では、人類愛のコンセプトを抱えるキリスト教とは違い、<愛>という語彙はできる限り避ける筈。悟りを開き解脱することを目指す上では余計な観念となるからだ。中華帝国の社会も、婚姻とは宗族維持の道具であり、ココに恋愛感情を持ち込まれてはこまるから、許容されるのは<[]でる>ことだけ。倭の概念とは全く違う。
従って、上記の2本の話は類似とは言い難いのである。
≪愛[心+夂(足)+旡]
  [呉音]アイ オ
  [漢音]アイ
  [訓]め-でる いつく-しむ お-しむ いと-しい
    え まな かな-しい う-い
さらに陳者・・・漢語では、愛は<[]う>感情とは異なる概念で、日本的な<[あわれ]む>とか<イト[おし]い>といった感情も含まれていない筈だ。しかし、<[いとお]しい>は万葉的言葉では無く、<[うつく]し>であると教えてもらって驚いたことがあるが、この辺りは素人には難しいものがある。

尚、モチーフは同一ではないものの、<膝枕>が仏教漢籍から採択されていると見ることができるという説自体は間違っている訳ではないので、ご注意のほど。
中華帝国社会では<膝枕>を表現する文字は無い。従って、倭語を漢字表記しようとするなら、漢語表記の用例があるならそれを参考にするのは自然な行為。両者が同一表記なら、引用していると見なすのは理に適っている。

「万葉集」にも<膝枕>の句があり、男女の睦会う情景を浮かび上がらせる言葉として使われている。・・・
○高齢の大宰府の大伴旅人と津島琴の精霊である乙女との交換歌。
歌を添えて、都の藤原房前に琴を贈った。若かりし頃の津島での思い出が浮かびあがり房前大感激の筈。
[「万葉集」巻五#810]大伴淡等謹状/梧桐日本琴一面 [對馬結石山孫枝] / 此琴夢化娘子曰:余託根遥嶋之崇<巒>晞o九陽之休光 長帶烟霞逍遥山川之阿 遠望風波出入鴈木之間 唯恐 百年之後空朽溝壑 偶遭良匠散為小琴不顧質麁音少 恒希君子左琴 即歌曰:
  いかにあらむ 日の時にかも 声知らむ 人の膝の上 我が枕かむ
○単身で大和國の宮に出仕してしまった夫が恋に明け暮れていることへの恨み歌
[「万葉集」巻十四#3457]
  うちひさす 宮の我が背は 大和女の 膝まくごとに 我を忘らすな

太安万侶は、皇統譜と関連事績集編纂命に応えるということで、歌謡の文書化を目指しており、五万とある漢字から、どのように選んで使うべきか苦慮したに違いなく、一番参考になるのは梵語を翻訳した漢籍なのは自明。
ただ、<膝枕>の話がその証拠になるとはいいかねる。と云うのは、この言葉にはなんらの特殊性もないからだ。日本語では、膝という言葉はいかようにも使える、"足"を代表する単語であるのは誰もが知っていること。換言すれば、坐の生活文化であることを意味しているに過ぎない。椅子文化地域にはありえない発想。(椅子文化の人が翻訳すれば"太腿"枕になる筈で、天竺の坐生活では倭国同様の言い回しが存在していたのだろうか。)

尚、<膝枕>よりかなり傍証的ではあるが、仏典用語かもしれないと感じさせる語彙が、もう一点存在するようだ。

南九州の隼人と天皇家は、海宮訪問を契機とする婚姻譚によって同祖であることが示されるが、ストーリー的には目立たないものの、その過程で、海佐知毘古が海神から賜った力で山佐知毘古を屈服させた点にも注目すべき記述がある。
服属を誓うシーンで、"稽首 "して赦しを請うからだ。
  如此令惚苦之時 稽首 白:・・・
(稽首は、志幾之大縣主が大長谷若建命に対して行っている。)

"稽首 "とは、頭を地面に叩きつける跪拜礼であり、中華帝国では最恭敬正拝とされている。しかし、それは中華帝国古代のことであり、「古事記」成立時では、特別なシーンというより、常時みられる行儀と化していた筈だ。それは出家者の常礼だったから。
従って、この用語が使われたという見方もできることになる。

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