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■■■ 「古事記」解釈 [2022.5.28] ■■■
[512]つい繰り返してしまう"柱"考
「古事記」の漢字を眺めていて、ふと、はしらについて、考えてみたくなった。

何回か取り上げてきたが、語幹を"はし"とみなし、ハシを繋ぐ役割を意味している言葉と考える説に一番説得力がある。柱とは、天地を繋ぐ依り代ということになり、情緒的には満点の見方だと思う。
しかし、代替案が思いつかないから是認しているものの、ココにはかなりの飛躍があるのも確か。
そこで、再考ということ。

ともあれ、この説を採用するとなれば、"-ら"は、<その状態にある。>という意味の接尾語とせざるを得まい。訳文字としては<等>になろうか。
要するに、"はし-ら"の原初的概念は橋にあり、ということ。

そうなると、柱とは、もともとは、橋を支える構造材を意味していた可能性が高かろう。釣橋の場合は両岸の杭的な直立する柱だし、リジッドな架橋なら脚を結ぶ柱的な材を指すことになる。
こうした、構造材には大木が用いられるから、木の霊に対する大いなる尊崇の念が生まれたに違いない。その場合、季節観の農歴と結びつく太陽信仰=高木祭祀と繋がらざるを得まい。
両者は分かちがたく、それが一体化したものが柱信仰となったのかも知れない。

ただ、その様な倭語の"はしら"と、漢字の"柱"に対応関係が生まれた経緯は必ずしも自明ではない。そこらを考えてみたい。

先ず、注意を払っておくべき点がある。

一つは、漢字としての"柱"に量詞(日本文法用語では数助詞)用法は無い点。
二つ目は、文字構造の<木+主>の意味の取り上げ方で、これを樹木の主と考えるべきでは無い点。
柱という文字は、倭の"はしら"の発祥とは違うという単純な話だが、日本の社会風土は、それを無視して倭的解釈したくなる体質なので、そこらを勘案しておく必要があるということ。
要するに、柱とは、家屋を支える観点での"主"と表記してるに過ぎない。主としているが、あくまでも支援・支持の役割を果たす物である。その発祥様態は、巨樹を切り出した頑丈な粗木なのは間違いあるまい。

ここは大事なところ。

諏訪に伝わる<御柱>は、<殿・宮>といった重要な家屋と直接関係している訳ではないからだ。出雲の社殿の巨大柱が<御柱>と同じ概念と言える証拠は無いということでもある。<御柱>だと、神が降臨する依り代とか、そこ存在する木霊の象徴と考えることはできようが、家屋の柱をそれと同一化できる根拠は実は薄弱。

漢字の知識が豊富な太安万侶は、おそらく、そこらに気付いたのだと思う。現代人にはそこらがわかりにくいのは、屋の支持主体たる"はしら"を示す文字は<楹>だったことを無視してしまうから。何故に、柱に変わったかを考えれば、その理由は、後述するが、道教的観念と考えたのであろう。

さらに、現代人が誤解しがちなのは、大黒柱のイメージが出来上がっていて、柱といえば家屋内で直立する構造物と思いがちなこともあろう。結果、これぞまさしく<御柱>となんの疑いもなく信じてしまうことになる。
正確に柱の意味をとらえるなら、物理的見地から直立物を指すことが多いのは間違いないが、基本概念はあくまでも支持物。そこに縦横の観念は無いとがある訳ではない。(構造材を垂直系"はしら/柱"と横架系"はり/梁"に大分別する思考方法は止めた方がよい。寺社仏閣は、横柱等々、肌理細かく。数々な柱で組み立てられた建築物。力分散型設計思想が基本であり、大国柱が支える発想とは全く異なる。)

繰り返すが、柱とは支持体なのだから、実は地位的には従であって、従のなかの主力として扱われていることになる。
その様な言葉の比喩的発展用法として、"者"も対象になる。当然ながら、重要な"臣"を指すことに。独裁的地位にある天子を意味する言葉には絶対に成り得ない。
"物"であれば、体を支える用途の杖も"はしら"と呼ぶことになろう。権力者の杖だと、侵入禁止表示の直立的"門"を指すことに。所謂、トーテムポールだ。時間軸で考えれば、トーテムポールが原初形態だろうが、それは概念的には柱ではない。トーテム部族居住地の結界を意味する門なのだから。

そこらを確認するため、"はしら"と訓読み可能な漢字を並べておこう。<楹>は上述したが、旗竿的役割(幹・標)を担う文字もある。・・・
  楹…エンタシスありの太円柱
  柱…中心部で気が直立
  棖…門に立てる長木(もともとは杖かも。一種のトーテム。)
  牚/樘…筋交い的支持斜め材
  橕/撑…つっかえ棒的竿材
  驕c築牆用剛木
  欂…壁用材(梁的短材)
  𪲖…漢籍出所不明・訓のみで音無し(国字)

おそらく、現代人にとっては初見の漢字だらけだが、「古事記」成立期知識人にとっては、既知であったろう。要するに、柱という文字は、これらすべての文字を1つに集約したのである。

さて、そこで「古事記」での、"柱"の用法だが、よく知られているように神や皇族の助数詞として数多く使用されている。しかし、国史では、全く使われていないから、公的用語では無く、私的用語ということになろう。

<助数詞=日本国流漢語量詞>
  柱…「古事記」用語
  体…依り代のモノ(お札/お守・ご神体)
  坐…祀られている特定の箇所@「延喜式神名帳」
  基…神霊の乗り物
  尊…仏教用語
  躯…仏像
  神…ママの通俗用法
  ---
  人…一般
  口…奴婢
  名…収容的表現

…漢語量詞には、神に対応する詞は無い。数詞無しでも表現可能だが、そうすると幼児的文章のイメージを与えかねないから、あってもよさそうにも思うが、数えるという発想が浮かばないのだと思われる。道教のように多神教で神々にも官僚的地位が充当されているからといって、神を数える必要性があるとも思えないから当然の姿勢かもしれない。

もちろん、<天の御柱>を筆頭に、名詞「柱」も記載されている。・・・
<天の御柱>
見立天之御柱・・・
天の御柱を見立て、
伊邪那岐命詔:然者吾與汝行廻逢是天之御柱・・・反降更往廻其天之御柱如先
伊邪那岐命:「それならば、我と汝とで、この天の御柱を廻り行き出逢って、・・・」・・・
かえり降りて、更に、往き廻ったのは、先の如し。

…天を支える柱と見立てたということだろう。降臨の依り代とされている訳ではない。このことは、高天原を支えるためにこそ、ここで国を作るという意気を示しているということになる。
実際、高天原統治者は葦原中国で生まれており、その統治を命じたのも高天原の神でなく、葦原中国で活動している伊邪那岐命なのだから。

<天ひとつ柱>
伊伎嶋 亦名謂天比登都柱
壱岐の島 またの名を天ひとつ柱と謂う。
…すでに触れたが、八嶋が流れて行かないように柱が留めているのだろう。

<櫛の男柱>=櫛の両端の大きな歯
湯津津間櫛之男柱一箇取闕 而 燭一火
ゆつつま櫛の男柱の一つを取り欠け、火をつけて燭光とした。
…おそらく、きざはしの両端の太い柱にに当て嵌めた用語だろう。

<於底津石根 宮柱>
於"宇迦能"山之山本 於底津石根 宮柱"布刀斯理"於高天原 冰椽"多迦斯理" 而 居・・・
"うかの"山の山本の、 地底の岩元に太く知らしめる宮柱が立ち、高天原に届く千木が高く知らしめる宮に居れ。
唯僕住所者 如天~御子之天津日繼所知之"登陀流"天之御巢 而 於底津石根 宮柱"布斗斯理" 於高天原 氷木"多迦斯理" 而 治賜者・・・
ただ、僕の住む所は、天津日子神嗣の御子が知らしめる"とだる"の天のお巣まいの如く、地底の岩元に太く知らしめる宮柱が立ち、高天原に届く千木が高く知らしめる宮で統治賜れば、
故此地甚吉地 詔 而 於底津石根 宮柱布斗斯理 於高天原 氷椽多迦斯理 而 坐也
この地ははなはだ吉い地であると詔され、地底の岩元に太く知らしめるく宮柱を立て、高天原に届く千木が高く知らしめる宮に座された。
…高天原と地を繋ぐ柱あっての宮殿。ここでは、社殿の建築構造を支える材との見方は消え去っており、地底の磐と高天原の間を繋ぐ"はし-ら"であると明言している。中華帝国では柱=楹だが、倭では柱≠楹であることがよくわかる。

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