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■■■ 「古事記」解釈 [2022.6.4] ■■■
[519]俣の出自は五里霧中
"俣"の訓読みは"また"以外に考えられない。・・・
次集御刀之手上血 自手俣 漏 久伎出所成神名 闇淤加美神
次於投棄御褌所成神名
㊔道俣
是高志之
八俣"遠呂智"
爾八十神覓追臻 而 矢刺乞時 自
木俣漏逃 而 去
刺狹 木俣
而 返 故 名其子云 ㊔木俣神 亦名謂御井神也
於子之中 自我
手俣"久岐斯"子也
此天皇 娶 師木縣主之祖
㊔河俣毘賣
娶 山代之荏名津比賣 亦名苅幡戸"辨"生子
㊔大俣王 次㊔小俣
㊔河俣稻依毘賣
故率遊其御子之状者 在於尾張之相津
二俣榲 作二俣小舟而
次 息長田別王之子
㊔杙俣長日子王
又娶
㊔咋俣長日子王之女 息長眞若中比賣 生御子 若沼毛㊔二俣
娶 多遲摩之
㊔俣尾之女
此 品陀天皇之御子 若野毛
㊔二俣
又娶 坂田
㊔大俣王之女 K比賣
又娶 春日中若子之女 老女子郎女 生御子 難波王 次桑田王 次春日王 次
㊔大俣

驚くことに、この文字は国字とされている。
但し、大陸で使用されていない訳ではなく、簡体字としては通用する。と言っても、そのような異体字としての用法が、「古事記」成立前に存在したと主張できる根拠が存在している訳ではない。
それに、訓の"また"の意味とは無縁な文字であり、同意しかねる説である。
だからといって、「古事記」成立前に倭国内で創作された文字であるとの主張に説得力があるという訳でもない。
どういうことなのか皆目分からぬ、と言わざるを得ない。・・・
≪俣[人/亻+吴]
  [国字説:形態元字]俟(シ ま-つ):矢⇒天 ム⇒口
    e,g. 静女其姝 俟我于城隅@「詩經」"邶風-静女":await
  [非国字説]俁の異体字↓…俣は現代中国文字の可能性も
  [倭語意味]道の辻/川の股 ⇒ 分岐
  [音]n.a.
  [訓]また
  [代替字][≒腿] 叉/扠[⇒杈 岔] 岐[=㟚]
  [異義同音字]又 亦 復
≪俁[人/亻+吳[𠃑+大+口]/呉 (⇒吴[夨(傾斜頭部人)+口]≒吞[天+口])]
  [呉音・漢音]
    e.g. 碩人俁俁 公庭万舞@「詩經」"邶風-簡兮" :large figure
  [訓]おお-きい

道については、つじ(四叉路の一種 十字路を指す。)がよく知られている文字だが、意味を失った地名・苗字用になりかけている。古代用字では見つからないようで、辷・𫐞[音不詳]を見て"十"として生まれたように映る。元字はの可能性があるが、こ-む同様の、「古事記」成立後の創作文字なのだろう。
意味からくる漢字発想なら䢒[日本語不使用]が選ばれる筈だが、筆記が面倒だったか、用いられなかったようだ。

部首"辵/辶"の国字としては、道にどう関係するかわからないが、他には、とてもあっぱれ(天晴れ)があがっている。

川の場合の表現は分岐であり、もっぱら、岔流/汊流/分流/支流との記載になる。

「古事記」では、上記で示したように、名称に使われることが多いが、指や木の"また"と、八頭大蛇の意味での分岐表現にも用いられている。この程度の範囲なら、意味訓として、股か岐を使ってもよさそうに思うが、どういう訳かそれを避けているのである。
それほど重要な文字ということになるが、その理由として考えられるのは、河俣毘賣の存在だけ。注目を浴びることのない存在だが、もともとの大和地区の女王だった可能性があり、"河俣"とは、奈良盆地から流出する大和川の最大の支流たる曽我川に座していたことを示しているようにも思える。
君臨できた根拠は、大陸の呉人と交流していたということかも。つまり、俁川≒2"また"川=曽我川-大和川ということ。特別な"また"なのである。
八俣"遠呂智"とは呉人の影響下にある蛇様の川の流域を意味し、手俣とは呉人本拠地たるデルタ域の支流多き状態を意味するのではなかろうか。

・・・極めて苦しい解釈であるが、他には思いつかぬのでご勘弁の程。

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