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■■■ 「古事記」解釈 [2022.6.28] ■■■
[543]「文字禍」は最良の参考文献
「古事記」を読もうと思い立ったら、参考書を読んでおくのは悪くないと思う。と云っても短編小説だが。
  中島敦:「文字禍」1942年@青空文庫
(アッシリアの碩学ナブ・アヘ・エリバ博士が、文字の霊が人間に及ぼす災いについて研究し、アッシュールバニパル王に進言するものの認められず、最後には文字の霊の呪いによって書物(粘土板)の下敷きとなり圧死してしまうという物語である。@Wiki)


その冒頭は以下の文章から始まる。・・・
  文字の霊などというものが、
  一体、あるものか、どうか。

小生は滑稽譚として読んでしまったが、真面目な解釈と、ゲシュタルト崩壊について書かれているという点に光を当てた評論が多そうなので、そのような読み方は異端の可能性が高そう。
テキストとして教育に使われていないようだが、その割にはよく知られている。

なんといっても面白いのは、主人公の博士の実地調査研究が、文字を覚えた人の体験談収集から始まっている点。話言葉だけの生活から、そこに文字書きと文字読みが加わるとどう変わるか、という発想である。
小生の考えている「言霊」は、身体のなかから魂の一部が息と共に発せられるイメージだが、ここではお札の文字が発するか如き神秘的霊力を指していて、全く別モノ。「文字禍」での言霊は、書き言葉たる文字の成立を以て誕生なのだ。

そもそもの起こりは、万巻を所蔵する図書館で毎夜ひそひそ話が聞こえてくるので、これは文字の霊の声だろうからと、大王に研究を命じられた事にあるから、当然そうなるのだが、流石、漢籍に明るい中島敦の著述との印象も与える内容となっている。震旦では、文字に言霊が宿るという発想であることを指摘しているようなものだからだ。
・・・たとえ表意文字であったとしても、それは解体すれば、なんの意味も有さないバラバラの線でしかなく、それらが交錯することで音と意味が生まれるのだから、ここにこそ言霊が存在すると言うのが博士の認識である。この文字の精の悪戯の結果、仕事の質が落ちてしまったとの実地調査結果もそれを支持するとの見解なのである。

こうした考え方は言語論的には大きな示唆を与えるものと云えるのかも。

文字不要の口誦の世界では、語彙や構文構成で意味を伝える必要性は薄いからだ。話し手と聞き手は、両者ともに同一の場に居り、その都度、互いの感性的交流で言葉の意味を作り上げていくようなもの。極言すれば、言葉自体に意味があって、それを伝えている訳では無いことになる。対話とは心的交流であるから、それに似つかわしい表象として発せられるもの自体に意味がある訳では無いという考え方だ。

一方、文字を介するコミュニケーションはこれとは全く異なっている。
書き手と読み手の間には直接的繋がりが無いからだ。このため、あらかじめ誰かが言葉としての文字の意味を取り決めておく必要がある。これ無しにはコミュニケーションは成り立たないのである。
そして何よりも重要なのは、一旦、文字が成立してしまえば、言葉に意味が与えられることになるから、話言葉にも意味が与えられるようになってしまうこととなる。

この論理が、正当であるとの根拠はないが、「文字禍」が描いている世界はそのようなものだろう。
博士の考える「言霊」は理解しやすい。・・・
言葉の発信側と受信側の間には、心的介在者が不可欠であり、本来的にはそれは思考する主体。ところが、現実にはその主体が存在していない状態になっている。これこそ、神秘現象そのもの。

そんなことがわかるハイライトシーンとしては超博学な書物狂老人の登場と云えるかも。
 彼は、少女サビツがギルガメシュを慰めた言葉をも諳んじている。
 しかし、息子をなくした隣人を何と言って慰めてよいか、知らない。

当たり前だが、ギルガメシュの言葉とは、ある場に於いて、ある状況が発生している時の言葉だからこそ、そこに意味が生まれるのである。
言葉が場と状況に依存せず、普遍的に意味を持っていると見なす人々は、一種の病に罹っていると、博士は見なす訳で、その病を流行らせたのは、疑もなく、文字の精霊であると看破したのである。

もちろん、この作品の時代的背景を考えると、中島敦は「古事記」の文字の精霊の齎害も随分ひどかった、と語っているようなもの。
しかし、太安万侶にしてみれば、そんなことは百も承知。
ともあれ、倭語消滅路線に乗らないためには、文字化は避けて通れずと判断し、文字無きコミュニケーションの時代の息吹をどう残すべきか、口誦の天才と二人三脚で格闘し、倭語に連なる原日本語はこうあるべしとのプロトを創出したのである。
その辺りは、中島敦も気付いていたかも。
大王の幼時からの師傅だった博士も、口頭報告ではなく、纏上げた研究報告書を献じているからだ。結果、ご機嫌を損じ即日謹慎処分。

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