→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.10] ■■■ [555]「古事記」文字と万葉仮名は方針が異なる ただ、その価値を間違えると、とんでもなきマイナス効果を招くので注意が必要だが。 何故に役に立つかといえば、著者が考え抜いてから行った、「萬葉集」だけを対象にした"網羅的"分析だから。しかし、現代のような細かなテキスト検討を経た整えられた母集団を対象とした"単純徹底"サーチの網羅的整理結果を記載してはいない。ココが肝心な点。(膨大な数の歌を巻毎に編纂してあり、構成の体裁は内容分類だが、各巻で文字表現方針が異なる作品グループ分けにもなっており、母集団を全体とするような分析結果は、できる限り参考にすべきではないことは自明。) おそらく、「万葉用字格」では、当時の通俗的見方に従って表記文字を整理した筈で、それをママ収録せず、取捨選択を行った上、直観的に個別に分類変更をしたように見受けられる。現代の学問観からすれば、いい加減な態度とされるが、考えてみれば母集団そのものが曖昧な設定である以上、そう悪くない姿勢と考えた方がよかろう。 実際、正音と略音の峻別方法には疑問があるし、音使用文字の網羅性も担保されていないように見える。辞書としては決定的な欠陥である。 戯書という分類名に至っては、どこから"戯"と呼ぶのかさっぱり理解できない。それに、よく話題にのぼる面白表現は全面的にカットされている。このためなんらかの思想性を感じさせる。しかし、脱 訓に於ける正と略に至っては、音とは違って、もともとが多義性で音便や適宜省略OKなのでさらに難しいものがある。さらに、漢字の原義、形態イメージ、読み音声を用いて文字表記化するだけでなく、翻訳文字の訓読みをさらに別義にしたり、創作的当て文字も使われるという滅茶苦茶な世界だから、一筋縄では行かない訳だが、これらを整理するための分類用語自体はわかり易く秀逸。 しかし、想像通り、具体的な分類結果を見ると、混乱を感じさせるものに仕上がっている。 ・・・従って、現代の常識からすれば、とても辞書の質的レベルに達していない。 逆に言えば、著者の本当の目的はそういう点に無いということ。 「萬葉集」全体という母集団を考えると、この姿勢、正しいかも。 まともな学僧なら、サンスクリットの音素文字形成法を知らぬ訳もなく、正音・略音の万葉仮名の発祥は、梵語の読みを漢字に当て嵌めた漢籍仏典の方法論に倣っていないことにすぐに気付いた筈。しかも、尾音が非母音の漢字を倭語表記文字化するルールについても厳密ではなく、誤読を防ぐ音素表記を目指すつもりも無さそう。つまり、本朝では、天竺や震旦と違って、上意下達型言語統制が全く効いていないとの結論に至ったと思われる。 要するに、御洒落で面白くて、見やすく発音し易く簡単なら、お互い通じ合える文字表記と思えばそれで結構ということになる。それこそが、倭語の伝統ということか。 この点も云えそうだが、「萬葉集」の文字扱いは、太安万侶の考え方とはかなり異なった方針といえそうだ。歌集という違いを超えているからだ。 特に、漢語が入る以上、濁音を清音の派生音とすべきではないとしている点が目立つ。音感が違っている可能性もあろう。 [㊣訓][借訓]< ・・・それはある意味、遊びの文字表現となんら変わるところがない。問題は、それによって何を伝えたいかの話なのだから。 「万葉用字格」が示したかったのは、「萬葉集」とは文学書としての歌集ということではまかろうか。 各歌詠みは、ご都合主義的に文字を使うことで表現の豊かさを生み出していることになろう。読者は、文字を目で見て内容を感じ取ってから、リズムを付けて自分なりので解釈で頭のなかで音に変換することになる。従って、呉音・漢音・訓は入り乱れて大いに結構となる。それが、各作者の個性を示すものになっているからだ。 この観点で、「万葉用字格」が秀逸なのは、濁音の項を措定していないこと。つまり、万葉歌人のほとんどは、清諾の違いなど、取るに足らぬ事とみなしていて、勝手にどちらでも選べばよかろうという態度だったことを意味している。 ここは、太安万侶とは考え方が異なる。漢語語彙が大量に入ってくる以上、できる限り濁音の峻別化が必要となると認識していたと思われる。同時に、漢字尾音の重母音や子音も、2音素化か省略、熟語の場合は母音挿入が必要となると考えていたようだ。従って、その辺りのルールの必要性を「古事記」を通じて主張したと考えることもできよう。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |