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■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.15] ■■■
[560]安万侶の独自文化観(1:母音語)
(1)語法について、眺めるシリーズを続けているが、「古事記」を味わいたいならココは避けて通れまい。「万葉用字格」を参考にすることで、歌と叙事詩の違いも見えて来たので、ようやくにして、その入り口に着いたというのが正直な感想。
と云うことで、今まで多少触れて来たことを含めて、感慨的なまとめを書いてみることにした。

ただ間違えられてはこまるので、一言。・・・
現代文翻訳の大前提だから語法を勉強している訳ではない。素人がなんとかそこまで辿り着いた気になっている訳ではなく、あくまでも素人だからこそ歩める道でのこと。

つまり、ストーリーを受け止めるために、しっかりとした学びが必要という考え方とは無縁。勉強して原文に取り組んで粗筋を確認したり、ましてや漢文の国史と比較するなど、小生は、マイナスにしかならないと見ているからだ。

要するに、日本型叙事詩とはどういうものか知るには、語法を知っておくことは、不可欠というだけのこと。(粗筋をより"正確"に追って、その細かな意味を知るためにいくら工夫を重ねて分析したところで、所詮は、残存する後世の書、あるいは、どの程度意味があるかわからぬ諸外国の書を参考にして整理し、どういう意味があるのかさっぱりわからぬ"一説"を打ち出しているに過ぎないからでもある。)

つまり、「古事記」の凄さは、語法で初めて見えてくる。

なかでも、筆頭にあげるべきは、≪口誦言語たる倭語は、音素を並べて表現することができる。≫という大原則を確立したこと。

そもそも、学者を除けば、音素なる概念が簡単にわかる訳がない。母音と子音という単純な仕訳で発音表記が可能というのも、社会的には単なる暗記学問と云ってよいだろう。母集団の取り方一つから問題になるから、発声音を仕訳すれば、どうしても恣意的にならざるを得ず、標準化が必要ということで成り立っているだけのこと。音素分解に正解など無い世界なのは自明。(現代人にしてから、日本語の口誦発音と仮名表記は合っていない。)
しかし、太安万侶の場合、そのような一般状況は当てはまらない。「古事記」編纂に当たって、天才的記憶量の倭語発音(音韻)専門家ととことん議論したのだから、完璧に音韻語法を理解していたと考えるべきだろう。
それに、江戸期の「万葉用字格」を参考にして眺めれば、「古事記」編纂者は、非漢語の口誦天竺語の語法(母音と子音からなるサンスクリット)を知っていたとしか思えないし、漢籍の文字読み用発声記述方法(1文字声調付1音素)についても明るかったと考えるしかあるまい。
従って、漢語の音表記方法にしても、漢字-漢字というトートロジー的な理屈であることに気付かない訳がないし、倭語発音と漢語の一文字音の差がありすぎることにも直面していたのは間違いない。

だからといって、太安万侶が、倭語の音素分解について、100%確信をもっていた訳ではなさそうだが、時代を考えれば、今、踏み切るしかなかろうとの信念に基づいて編纂行為を進めたと見てよかろう。

ほとんど注目されていないようだが、これこそ、日本の針路を決定付けた大きな決断そのもの。

太安万侶は、日本は岐路に立たされていることを理解していたとも云えよう。・・・
❶漢語・倭語のバイリンガル国家の道
   …文字記載前提の漢語(公式話語)+話語のみの倭語
❷漢字表記可能な母国語確立国家の道

この時代、朝鮮半島を含め、中華帝国辺境の多くはバイリンガル国家の道を選択した。漢字使用を天子から許され、公式書類は漢文となり、それは漢語で口誦される体制となる。独自文字使用を試みる動きがあれば、それは反中国と見なされ、官僚はいかにして消滅させるか競って動くことになる。従って、属国の知識階層はバイリンガル国家の道を選ぶのが普通である。(朝鮮半島は早くからバイリンガル国家体制を敷いており、モノリンガルは賤民である。「古事記」成立後も5世紀にもわたってその体制を遵守し続けた。雲貴の少数民族は、全く異なる語族グループがひしめき合っているが、中華圏である以上、どこもここも昔からバイリンガル統治である。)
ここらの状況は、日本語解説では希薄になるので注意が必要である。音と訓に慣らされているからで、バイリンガルが続けば、次第に音と訓の対応ができなくなり、原語上の独立精神はせいぜいがピジョン語として発露されるだけ。長期的には、母語は漢語に取り込まれることになる。

そんななかで、「古事記」のメッセージは強烈そのもの。漢文を母国語で読むべしというものだからだ。常識的にはトンデモ話の類なのだが、日本人にとっては当たり前。

なかでも秀逸なのは、地文と歌の画然たる語法の違い。

歌は5あるいは7音素の句のリズム感ありき。句の集合体であるから、文の構造を考える必要は無い。
知っている音素文字を並べればそれで通用することになる。標準的な音素文字を使うことが、推奨されるものの、伝達性十分ならその限りではないことになる。
「萬葉集」所収歌はそうしたメッセージを受け、詠み手の嗜好で好みの音素文字を使うことになっている。句のリズム感を想定すれば、言葉がわかるだろうとの思惑での作品も生まれる訳だ。その表現を使うことによって、情感豊かな文芸作品に仕上げる訳だ。まさに、第一級の作品集であるが、「古事記」とは異なり、叙事詩ではなく、抒情詩である。

地文は、歌とは違い、文章が並ぶことになるから、話し手と聴き手の場によって語彙の意味が決まってくる倭語は、音素分解して表記するだけでは、とても読めたものではない。
太安万侶は稗田阿礼のアドリブ能力に接し、表記文字を口誦するにあたって重要なのは、歌と違って、句の切れ目がわかることと、文章構造がわかることという点に気付いたのであろう。
つまり、構造文的な表現でもある倭語部分はママ漢文を用い、句の切れ目に当たる箇所の文字を厳選し、その文字の多義化を避けたのである。表面的には、各種助詞や、語気詞等々について、できる限り標準化したことになろう。

おそらく、この程度だけでも、あとは意味ある語彙の文字を並べると、倭語文章の文字化は難しくないと踏んだのであろう。漢文に於ける語彙には、原則、品詞区別皆無だし、熟語だらけだから、そのような知識をものにする能力があればなんの難しさもないということになる。表意文字であるため、イメージで文字の意義が想定しやすいことから、どうということもなかったのだろう。
この辺りの知恵が、漢文の読み下し方法論として、樹立されていくことになる。公式文章は漢文でも、バイリンガルである必要はなく、倭語で口誦できるのである。他の辺境属国からすれば、驚異的なことで、一種の離れ業と云ってよかろう。

太安万侶と稗田阿礼の優れた洞察力がわかるのは、この見方そのものではなく、こうした文字表記に不可欠な語法に気付いた点。

先ず、和語の音素を確定したことが大きい。
所謂、からまでのン無し50音のような規格化ができているということ。

「万葉用字格」は、これに、ヰ・ヱ・ヲを加えただけで、この3母音系の音素を無視しているし、清濁はコミコミ。倭語という点では、この考えには一理あるが、「古事記」は違う。
50音とは8母音で整理すべきとしており、倭語にはもともと無かった可能性が高い濁音も、漢語語彙流入を踏まえて、音素として独立して考えるべきとしている。そして、「古事記」全巻で、当用漢字を示したと云ってよいだろう。
その知力のレベルの高さには敬服せざるを得ない。

この音素設定こそが、日本語樹立の大元となっていることも忘れてはならない。

日本語は明らかに母音語である。語尾子音の発音は異常であり、西洋的な音陰論議に上手く乗れるのか、今一歩確信が持てない。漢字読みは、呉音・漢音・訓として学ぶが、これらは全て倭語である。この時点で、バイリンガルは全く成り立たないことになる。
倭語の音素はすべて母音であり、子音が頭に付属することができるというもので、1文字1音素の漢語の発音とは全く異なっている。語尾子音なら母音を付けて2音素にするか、省略することになるし、語尾2重母音が、省略・長母音・2母音と化す。倭語に合わせて漢字を当てはめるのだから当然の成り行き。
太安万侶と稗田阿礼はこれをはっきりと見据えていたのはほぼ間違いないと思います。

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【ご注意:音韻に関する一般的解説には従っておりません。】
素人からすれば、<音素>とは"伝えるべき意味を有する"音声の元素、物理学なら原子、と規定するのが一番自然です。(元素の先は観念上の"実在"ということになります。)表音と表意では出生が異なりますが、文章に用いられる文字はこの<音素>に対応している筈です。(おそらく、そんな対応を嫌う、理屈で作られた人民管理用言語もあるでしょうが。)
そのように考えるなら、アルファベット・漢字・仮名の1文字が表記上の最小単位ですから、原則、この1文字に対応している発音を音素と考えざるを得ません。
単純化すれば、印欧語・漢語・日本語のa・愛・アはいずれも1音素とみなすということになります。当然ながら、愛を訓で"あい"と読めば2音素になってしまいます。k・加・カもそれぞれ1音素ですが、"カ"のローマ字表記は"ka"ですから、2音素とされたりしかねませんから理解し難い人の方が多いと思いますが。
同様に、愛の漢語発声構造を分解すれば"ài"ですから、一見2音素ですが、これは2重母音であり、訓練された専門家は発声構造を見抜けるのでこのように表記できますが、現実には一塊ですから単音素であり、複数音素からなる1音節と見なすべきではないというのが、素人の当たり前の見解です。

ただ、漢字は1文字1文節という見方が間違っている訳ではありません。「万葉用字格」には<ト>項の[正訓]として不時/非時[トキジク]とされていますが、常識的には、<時>の2音素"とき"を記載すべきでしょう。さらに、<シ>項にも、実際あるのかはわかりませんが、呉音の1音素"ジ"を[正音]として収録して欲しいと思ったりします。しかし、「萬葉集」の場合、こうした見方もできることに十分留意すべきです。そう云えばご想像がつくと思いますが、<時>を"ときには"と読むこともできますから、漢字1文字は完璧な1句=1音節の文字であることになります。・・・林檎と蜜柑問題です。

繰り返しておきます。
誰であろうと、発声上では、カ≒kaという理屈に疑問をさしはさむことはありませんが、倭語〜現代日本語で、一貫して、音素の発音終端は必ず母音的であり、"k"を独立して発音することはないのです。日本語に"k"という音素は無いということです。
漢語の"ài"も仮想的な2文字表記に過ぎません。それぞれ別文字で全くの裸の単音素になることはありえないことではありませんが、愛の発音はどう変化しようと、2音素ではなく、必ず単音素です。単音素ですが、音は日本語と違って複雑ということを意味しています。その上、声調が加わるので、本来的には同音異文字は無いと見るべきでしょう。
例えば、犬の呉音はケンで日本語では2音素です。おそらくこの漢語元音は kēngと思われますが、印欧語でこれを解釈したらひょっとしたら4音素かと思ってしまいます。もちろん、現実の発音は声調がついた1音素です。但し、これは"理論"的分解が可能で、k-(_+ē+ng)となります。一見、2音素風でもあり、1つの音が省略された3音素風と考えることもできます。言うまでもなく、この分解物は観念上の"実在"で、専門家は自由自在に発音できますが、いずれも当該言語では分解物が単独裸で使われることはありません。素人は、そのような音を<音素>とはみなしません。
ついでながら、「今昔物語集」の編纂者は、天竺・震旦・本朝という世界観を披歴していますが、このことを踏まえているようで、その知のレべルの高さには舌を巻きます。


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