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■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.20] ■■■
[565]ファシズムについて一言
ここらで、一言必要かも。政治的立場から「古事記」を嫌う人は少なくないらしいので。

と云っても、ネット検索でタイトルを見ただけ。
マ、その程度のお話を一寸しておこうというだけ。

「ファシズム」と云えば、1920〜1930年頃の独・伊・日の政治思想だが、これを世俗的に解釈すれば、情念から来る熱狂が社会を支配した軍事独裁体制としか呼びようがなかろう。
ただ、日本の場合は極めて特殊と云わざるを得ない。嘘八百政治で大いに結構という国家は、現代でも珍しくもないが、シナリオを描けないような素人軍人を統率者にまつり上げる国家は滅多になかろう。お蔭で、合理性を欠く判断だらけ。当然ながら、惨憺たる結果を招くことになるが、それが一向に気にならないのだから驚きである。

それはともかく、狂信的自滅主義としか思えないこの流れの基底となったのが宗教に裏打ちされた神話。その結果、「古事記」気に入らずという人がでてくることになる。

ただ、独・伊・日という視点でみるなら、神話云々は本質から離れ過ぎだと思う。素人から見れば、その動きはえらく単純。・・・

インターナショナル化を推進するメインストリーム宗教への強い反撥感(既存大国との角逐の読み替え)をバネにして、宗教の民族化を推進したように映るからだ。それが時代感覚に合致していたので、一挙に独裁国家体制を実現することができたのだろう。しかも、社会的熱狂が発生したので、世界に冠たる帝国を樹立すべしとの怒涛のような流れが発生してしまい、後は突き進むだけということになる。

西欧的表現で換言すれば、民族化した十字軍帝国が生まれたに過ぎまい。
と云っても、十字軍時代の信仰はあくまでも個人の神への帰依が原点だったが、ファシズムはそれとは全く異なる信仰形態を生み出したから、それほど単純ではないが。(軍隊が典型だが、世俗組織に属することで信仰を深めることが可能とされる。"神に身を捧げる。=組織に全身全霊を傾注する。"という読み替えが行われたことになる。組織にすべてを捧げない輩は不信仰あるいは敵対する異教徒と見なされることになる。これによって、全体主義が行き渡ることになる。)

ともあれ、我々こそ真に世界に冠たる民族という自負心あってのファシズムである。マザー・ランゲージという概念なくしては、成り立たないのは間違いない。

実際、母語への揺るぎない愛が語られ、母語には大地に根ざす強靭な生命力があるとされ、"祖国=母語"意識が醸成されたのである。
(ドイツでは、ヘブライ語は紙に書かれた文字でしかなく、生命力を失っていると見なされた。もちろん、ラテン語も同様である。生きた言語[独語, 希臘語] v.s. 死んだ言語[他]という2項対立的見方が常識化した。)

このような流れがドイツでいとも容易く発生したのは、民族国家とは母語で規定されるとのドグマがアプリオリに存在していた上に、言語は神ではなく人間によってのみ作り出されたとの主張が受け入れられていたからだろう。(反啓蒙主義者のWilhelm Gottfried von Herder[1774-1803年]の思想を引き継いでいる。)つまり、言語こそ国民精神であり、自国民の文化的伝統を自覚することの重要性が至る所で語られたことになる。それを受けて、世の中は、歴史的な記憶=神話を振り返る動きが大流行することになる。(e.g. ワーグナーの歌劇)

一方、日本だが、吉本隆明(「共同幻想論」1968年)が"国家とは共同の幻想である。"と看破したことで、状況はだいたい想定がつくのでは。・・・大日本帝国の臣民は共同体意識が完璧に植え付けられていたことに初めて気付いて、少年期に骨の髄まで侵食された天皇制の意味をとらえ返したとされている。(但し、この著作は難あり。ナショナリズムという共同幻想は、和歌創作同様の自己幻想に由来しており、これを解体すべしという主旨でまとめようとした割には、母語の役割についてはよくわからないからだ。しかも主張の核である家族の定義をはっきりさせていない。このため、宗族共同体や地縁型村落共同体についての概念が曖昧にならざるを得ず、多分に情緒的と言わざるを得ない。)
しかしながら、言語を共有しているという意識自体は幻想ではなく、真っ当な現実認識。・・・そこから出発すべきだろう。
ただ、その先が厄介である。
言語共同体が存在しているか否かの議論になるからだ。

言うまでもないが、なんとも言い難しとしか言いようが無い。同一言語と云っても、身分や地域で言葉の内実は多様そのものだし、バイリンガルの存在を考えると、1つの<母語>を規定するのはことのほか難しいからだ。と云うか、どうしてもトートロジーに陥りがち。(もっとも、政治の世界では、極めて好都合な曖昧用語と云える。)
・・・ファシズムの時代、言語共同体観念は一世風靡したのは間違いないにもかかわらず、その概念は曖昧というのでは、議論どころではなかろう。

ところが、当の「古事記」を読むと、編纂者は言語共同体概念を研ぎ澄ませようとしているように見受けられ、言語の本質を抉り出そうとしているような印象さえ受ける。
「古事記」は、"共同体実現の核に言語あり。"というテーゼを提示していると読めなくもないのである。
そうだとすれば、国粋的情念と熱狂を支える経典扱いになって当然と云えそう。

ここまで書けばおわかりになると思うが、太安万侶が考える言語共同体の核は神話でもなければ皇統譜でもない。それらは結果であって、原因ではないからだ。

言語共同体の定義が難しいと書いたが、その理由自体は自明である。

言語を通じたコミュニケーションは、対象範囲の広さと、質的深さ、交流頻度によって状況は大きく異なってくる。本来的に多様なのに、<母語>として仕訳しようとするから、話者が属する社会の構造論を使うことになってしまいがち。これではトートロジーそのもの。それだけのこと、と云えなくもない。

しかるに、倭語の特徴を理解すると、いとも簡単にその呪縛から解き放たれる。
倭語は、他の主要言語と異なり客観的な表現を嫌うタイプ。しかも簡素化を好み、様々な流儀の語彙を併存させている。このため、柔軟性に富んでおり、初歩的修得は容易な筈。しかし、それは他言語の環境で考えるからで、実際は、そう単純でもない。意思疎通したい者同士が場の雰囲気を認定し、両者で共有していないとコミュニケーションを図るのがとてつもなく難しいからだ。
太安万侶は、おそらく、この特徴こそ言語共同体化発祥の鍵と踏んだのであろう。言語共同体とは、言語ルールを積極的に共有しようという人々が存在して初めて成り立つ社会ということになろう。

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