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■■■ 「古事記」解釈 [2022.7.24] ■■■
[569][放言]「古事記」語のユニークさ
似て非なる者とは本来的には偽善者を意味する言葉と思うが、一寸見には同じでも実際のところは全く異なるという意味で使われているのは誰でも知るところ。いかにも儒教的なものの見方であるが、そう思う人はおそらく極めて少ない。

「古事記」について書き続けていると、そこらが気になってくる。と云うか、真面目な顔をして孔子を語る孟子[「孟子」尽心(下)]をからかいたくなる気分。

言語について見て来たのでどうしてもそうなってしまう。・・・
中華帝国の特徴は、宗族第一主義の社会を天子独裁-(科挙)官僚統治体制下で合理的に治めることにある。それが機能するのは、文字表記の漢語を"母国語"とさせる中華帝国文化圏を確立しているから。
太安万侶は、おそらく半島の状況を見てそこらを理解したからこそ、倭語記載の書を編纂したと見ることもできよう。(従って、漢文の書を参考にして「古事記」を"解読"するなどおよそ考えられぬ行為としか言いようがないが、そうすることがほとんど義務化されているのが日本の現状。)

儒教の感覚からすれば、「古事記」の文章は漢字を使っていて、あたかも漢文という風体になってはいるものの、いわば似て非なる者。「萬葉集」に至っては、全篇に渡って漢字ころがしの謎の書ということになろう。
従って、中華帝国にしてみれば、唾棄すべき書以外のなにものでもなく、帝国圏内であれば即時焚書で著書極刑間違いなし。
しかし、こうした姿勢こそが大笑いの対象そのもの。

中華帝国の科挙官僚とは、天子が喜ぶ新機軸を打ち出しながら、帝国巨大化を画策し、帝室繁栄を図ることに狂奔し、権謀術数を駆使して熾烈な出世競争を勝ち抜くことで毎日を生きている人々。(「酉陽雑俎」著者のように反科挙の高級官僚も存在するが、ほんの一部の知識人だけである。)

その帝国繁栄の鍵は、儒教とされることはあるものの、実際の核については滅多に語られることはないが、自明である。官僚による異文化の取り込み政策ありき。
もちろん、そんなことができるのは、武力強制と儒教倫理の精神統制がその大前提として存在しているからで、一気に新機軸取り入れが行える仕組みが完備しているということ。(儒教の根本は宗族制。反帝室者・無武功者・ルール逸脱婚姻者を抱えると、宗族ごと抹殺されるリスクが生じるので、この仕組みは自動的に強化される方向にある。皇帝の指示に上手く対処し、他宗族を蹴落として勝ち組に入らねばとの競争が働くので、反応は素早い。)
上首尾に異文化を導入できればそれを中華帝国の独自文化とする仕組み。
従って、漢文とは、文字や文法、はては発声まで、中華帝国が生み出したと考えるのもおそらく間違い。天子が選択した官語ありきの社会であり、その出自は消されてしまうので、トレースは無理であるから調べようがないが。(例えば渡来仏典は写本を含め早い時点で中華帝国圏のどこにも残されていない状態になったと見た方がよく、たまたま出土する遺跡は圏外ということになる。ただ、報告書では、中華思想から、圏内扱いにされている場合もあろう。)

帝室にしたところで、唐朝でわかるように、人種や血統で規定されて成り立っている訳ではない。フェイクであろうが、宗族の態を示すことさえできればそれでOK。官僚統治機構上のご都合主義というか、帝国樹立のための儒教的政治の合理主義で成り立っているからだ。異義を唱える者は抹殺すれば済むだけの簡単な話。

もちろん、この風土は現代に至る迄脈々と受け継がれている。侵略された日清戦争で完敗したため、日本語を大量に輸入し、外来語の文字化手法も倣うことになった訳で、これなくしては現代語は使えない程である。もちろん、官僚機構によって中華帝国の独自語とされていくことになり、そのスピードはご都合次第。
それを考えると、中国語はこの先、今まで使うことがなかった、日本語の助詞的用法もこの先取り入れていく可能性もあろう。(日本語助詞とは異なる<文構造・時態・語気>を示す補助辞[漢語助詞]の役割が拡大していくのでは。)句読点の利用で、読み易くなってはいるものの、品詞が違っても文字は全く同じで活用語尾も無い以上、語順だけで動詞・名詞・形容詞を判別するといっても、表現に限界があるのは自明だからだ。

読めばすぐにわかるが、「古事記」語は100%漢字表記だが、漢語をほぼ換骨奪胎し、サンスクリット語ベースに変換した倭語になっている。
ここでの太安万侶と稗田阿礼の認識力は並外れているといってよいだろう。倭語では子音表記できないというか、独立音として存在し得ないことを明確に打ち出したからだ。

表音[母音+子音の論理]の梵(天創造)/ブラーフミー文字表記語にせず、表意の漢字を用いただけのこと。もちろん、漢字音と梵語音が一対一対応していないので齟齬は生まれるものの、マイナーな問題として捨象すればよいとの姿勢。
なんとなれば、サンスクリット語ベース倭語を確立しておけば、ママの漢語文章をそのまま倭語として読めると踏んだからだ。

つまり、乗船と書けば、SVO語順であることに気付くから順番を逆転して助詞を挿入するが、音で布泥迩乗流と伝えるのと同等ということになる。もちろん、これを渡来語としたいなら、熟語として別読みにしても一向にかまわない。臨機応変に記載しても、たいした障害は発生しないと判断したことになる。
現代日本語のごちゃ混ぜは、太安万侶によって決まったと云ってよかろう。

それでは、漢語の良さはなにかといえば、2つあるというのが、「古事記」的見方だろう。

1つは、目で読むリズムの美しさであろう。
五言律詩や七言絶句は漢詩ではあるものの、1文字1音素と見れば、倭の七五調となんら変わりなく、序文で、その端麗な表現を見せることで読者に気付きを与えている。
つまり、目で文字を読んでその音に変換してから、語彙の音を再構成して、倭語の音からその意味を確定するといった作業などなくても、漢語としての意味が文字形態から察することができれば、句の切れ目やある程度の助詞が表記されていさえすれば、漢字の読みなど知らなくても倭語で読めるという点の嬉しさを知るべしといったところ。

2つ目は、文字が部品の組み立て構成になっており、同類がわかり易い点だが、それ自体にはそれほど大きな意味はなく、複数文字で語彙を形成するという特徴が重要。
意味を組み立てて一つの語彙を形成できることになるから、概念形成力抜群と云ってよかろう。しかも、使用文字からそのイメージが湧き易いのだから、コミュニケーション力抜群。

こうして考えてみると、表記は同じでも発音は地域で異なるという話とは、官語に対する姿勢が全く異なることがわかる。
「古事記」は、官語(国家統制語)という中華帝国の大原則に真っ向から歯向かっているようなもの。
似て非なるどころではない。

ここで間違えていけないのは、美学。
それは漢字という文字の形成パターンに由来するのではないという点。標準化されてしまった記号を貴ぶことはなく、その文字をどのように描くかが肝。
話語たる倭語の原則が文字化されても貫徹されているということでもあろう。

言語は相対で場の雰囲気を共有してこそのもの。気分を共有しないとコミュニケーションは難しいという特徴は、どのような書体で表すかという点に集約されたと見ることができよう。

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