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■■■ 「古事記」解釈 [2022.9.9] ■■■
[616]五七調音歌とは呉詩の前身では
短歌を5-7・5-7・-7.との並びと考えるのが、太安万侶流倭語文法との話の📖五七定型歌への道続き。先ずはRecap。・・・
五七調とは倭語の文章構成の基本概念を反映している筈というのが、安万侶流の"見立て"。実際にそう見て妥当かは、なんとも言えない。そういう話をしている訳ではないので注意して欲しい。(現代の学校文法にしたところで、どう考えても無理矢理と感じても、そのように「見なすことにせよ。」と社会的に強制されるのだから致し方ない。発音表記1つとっても、小生はガをgaと発音している人に出会ったことはないが、表記を問題にする人などいない。)

ただ、五七感覚は最古層の精神から発していそうだ。そんな話をしておこうと思う。

なんといっても驚かされるのが、収録歌の1番が、57577であること。内容と言えば、<やへがき>という繰り返し詞だらけで、表現しているのは意味ではない。リズムで寿ぐのが倭人の姿勢ということになろう。たったこれだけの詞で、すべてを表現するのだから、聴き手は詠み手の心情とその状況を予め理解していることが要求されることになる。
これこそが倭の歌の本質ということになろう。
間違えてもらってはこまるが、本質を推定しているのは、このサイトの筆者ではなく天武天皇である。「古事記」は詔で指示された2書を出典としているが、この歌がその書に記載される最初の歌。この歌を忘れずに、と稗田阿礼に教示したようなもの。
これが和歌の原初と認定したと言ってよいだろう。

問題は、この57577という形式をどう考えるかである。

「古事記」の歌の扱いからすれば、歌を特別視しておらず、叙事詩の一部ということになろう。ただ、地文は散文でアドリブ読み容認だが、歌は韻文で音素発音で厳格詠みという違いはある。従って、リズムに合わせた発音をすることが「古事記」流の歌の技法といえよう。
このリズム感だが、元は倭語の文法と考えるのが自然だ。そうなら、歌も、倭文法の一番の特徴である,文章の最後尾箇所にすべての叙述が凝縮されるという絶対的ルールに従っている筈となる。そこで、歌全体を俯瞰的に眺めれば、完結していると見なせる歌のほとんどが7音素句が最後尾。7-7と連続している歌も少なくない。それなら、7音素句とは叙述部と呼ぶのがピッタリでは。

倭語のもう一つの絶対的ルールは前置装飾。叙述部のオマケ表現は前段に繋げることになる。オマケであるから、音素数を少なくして収まりを良くするのは当たり前で、その典型が5-7。
このことは、(5-7)-(5-7)-(5-7)-(5-7)-(5-7)-・・・(-7.)が韻文の基本形ということ。5・7の文字数の揺らぎはあるものの、このリズム感以外にあり得ない。

従って、断歌と呼ぶべき構造は<㊂5-7-7.>となる。少数ではあるものの収録されている。
しかし、最少文字で、歌らしく表現したいなら<㊄5-7-5-7-7.>となるのは自明。

歌垣の場合は、相対しての掛け合いが命であるから、丁々発止で緊迫すれば、提起<㊂5-7-7.>→応答<㊂5-7-7.>となるし、朗々と恋心を詠いたいなら長歌になろう。その場合、即興であるといっても基本ブロックの(5-7)が創作とは限らない。知られたフレーズを雰囲気に合わせて取り込む能力こそが、歌垣の聴衆から賞賛されたに違いない。

それでは、この(5-7)の基盤たるリズムはどこから生まれたかということになる。

「古事記」以前の情報は中華帝国の漢籍に頼るしかないが、倭歌についての情報は皆無である。しかしながら、漢詩についてはそれなりに古詩からの変遷が想定できるので、そこらを参考にするとおぼろげながらだが、倭歌の位置付けが見えて来る。・・・

絶句とは5字4句。(律詩は8句。)漢字1文字の発音は、専門家以外の母国語話者は、それ以上バラバラにして独立して発音できない。アルファベット文字と比較するから表意文字と呼ばれだけで、紛う方なき1文字1音の音素文字。しかし、それを日本語仮名文字で音(呉音,漢音,唐音,宋音)表記すると複数音素になってしまうことが多いのでそう考えない人が多かろう。
これからすると、五言絶句とは、"5-5-5-5"という実に単調なリズム。凡庸としか思えない。韻を踏ませる等の装飾技法が入ったとされるのは唐代。同時に、文字数の定型化が図られたようだ。文字数には揺らぎがあったのである。
七言絶句もあるが、五言絶句の発展に便乗して定番化したと云われている。4より7の方が表現余地が大きいので流行っただけのようだ。勿論、六言絶句もあるものの、両者の間の例外的存在に終始したようだ。

さて、五言絶句の発祥だが、揚子江下〜中流域での、呉声の恋愛歌曲(西曲)や湖北民謡子夜歌・襄陽楽と見られている。
そこは儒教的な中華帝国の統治下でなかった地域。宗族第一主義の厳格さを求める官僚体質とは正反対の、男女間での恋路を楽しむ風土と見てよいだろう。そんな地に、古詩(楽府)の文字数や句数の規定があったとは思えず、4句とは、表現の連続最小単位と考えての断詩体に過ぎなかったと考えてよいだろう。(従って、起承転結は後世の指南で生まれた作風ということになる。これにより、表現規則がさらに複雑化する。科挙官僚が好む公定表現/評価路線そのものと言えよう。当代随一の文章家が、あえて変形詩を作ったり、ソグド演芸を愛好するのは、ある意味必然。)

・・・なんのことはない、こうした呉声の恋愛歌曲の前身が、倭語の五・七のリズムということになろう。
東アジアの精神文化の一番の古層表現こそ、「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」ということになろう。
天武天皇がそれに気付いていたかはなんとも言えないが、太安万侶はそう考えて編纂していたに違いない。

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