→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.6.7] ■■■ [711] 雑炊言語だからこその混淆 もっとも、太安万侶発案の技法といっても、それぞれの表記方法自体はすべてがすでに使われていたのである。「古事記」の独自性とは、それらを同一次元で混淆した点。 現実社会は確かに、そういう状況であることは確かだが、それを一緒くたにした文章があり得ると考えるような人はいまい。現代なら、そんな社会を揶揄するお笑い芸人の世界でなら喝采を浴びるだろうが、そんな滅茶苦茶な、と馬鹿にされるようなものではあるまいか。 しかし、どうも、当時の社会はそうではなかったようだ。「古事記」を読んで、成程、自分達の社会はその様なものだったのかと、目を覚まされたということでは。読者がインテリなのだから、実は、そんな反応が返って来て当たり前だったかも。 どういう経緯があったにせよ、 公式漢文@序文・・・ 辭理叵見以注明:辞理見るに 倭文的疑似漢文・・・ 見立天之御柱:天之御柱を見立て 欲相見其妹伊邪那美命:其の妹、伊邪那美命に相 見其腹者悉常血爛也:其の腹を見れば、悉く常に血爛る 見其菟言:其の菟を見て言ひしく 不見國土:国の土を 音読み漢字表音文(「古事記」仮名@歌)・・・ "知婆能 加豆怒袁美禮婆":千葉の葛野を見れば "能知母登理美流":後も取り見る "美延受加母阿良牟":見えずかもあらむ 混淆倭文・・・ "美蕃登[音]"見炙而病臥在 仰見者有麗"壯夫[音]" 漢文的倭文・・・ 入見之時 刺割而見者 それだけでは無い。「古事記」の編纂方針は実に奇妙と言わざるを得ない。 漢文の序文は上巻本文と段の区切り無しに連続しているからだ。漢字の文章に句読点など無いから、現代人にとってみれば、どうしてこの様なことをするのか不可思議。 ・・・太朝臣安萬侶天地初發之時・・・ 序文で、"乾坤初分-陰陽斯開"との対句で本文冒頭と思われるガイストを予め伝えてくれているので、ココから本文の宇宙創出譚であろうとかろうじてわかるものの。現代人なら漢語が続いていると思いかねず、 ところが、はてさてこの6文字はどの様に訓読みすればよいのか、冒頭から頭を捻らざるを得ないようにしてある。 実際、専門家も勝手勝手な説を唱えているだけで、どれも説得力に欠ける。とんでもなき記述がなされていることになろう。・・・ あるいは、ほとんど見かけないが、"發"を捨象してしまう本居宣長流の読みもあり得るかも。 もちろんその根拠が薄弱すぎるから、無視される訳だが。・・・ [巻二#167:柿本人麻呂]天地之初時:天地の初めの時 ・・・太安万侶からすれば、思惑通りの推移では。 この冒頭句にはなんらの注記も付けていないし、序文でも唐突にも"臣安萬侶言夫混元既"から始めているところからすれば、意図的にどうにでも読めるように記述したとしか思えないからだ。(最古の書「古事記」を神典と見なすならトンデモ論である。)要するに、読者である漢語堪能な人々には、この箇所を文字で記載しようとすると、斯開、開闢、発起、発現、・・・といくらでも語彙を上げて来る訳で、どれが正当かとの議論など無意味で、好き好きにすればよかろうとなる。それがこまるなら、公的書で決めるしかあるまいとなる。 そんな風に突き放しているのは、当たり前だが、天地という漢字を見て、訓で読む人がいないからでもあろう。"初發之時"とあるのを見て、そうか天地から訓読みになるのかと、ハッと気付かされるのである。この効果は絶大である。 それなら"初發"の訓はどうなるかと頭をひねらされる。覚えがあるフレーズは確か"天地の初めの時"だったと、思い浮かぶからだ。すると、ここは読者が勝手に訓で読めということか、と考えたりもする。そう思った瞬間に、次の文字に目が行く。"於高天原成神名・・・"そして、この文末の割注【訓高下天云阿麻】を読むことになり、そうか、皆、"初發之時"の言い回しなどご存じでしょうと消し掛けているのだナ、とわかるのである。 (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |