→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.9.16] ■■■ [808] 太安万侶:「漢倭辞典」 「古事記」で使用している動詞の数はその気になれば暗記できる程度。しかし、使っていない動詞も眺めてみたが、それ程沢山の種類が存在している様には見えない。厳選する姿勢ありと言うより、膠着語とはそういう性情かも。 屈折語は名詞語であるため、名詞の性情に合わせた動詞変態が要求されることになり、どうしても活用は複雑化してしまう。異言語語彙を取り込めば、錯綜は避けられない。。しかも、主語-動詞という構造が文の屋台骨であるため、動詞は主語名詞の性情に合わせた表現形態が要求されるのでとてつもなく複雑な文法になってしまう。さらに、名詞言語なので、個別動詞の表現内容に応じて名詞を規則的に順番配置する必要がある。これでは、文章構造のルールの単純化は不可能。 言語習得の負担は極めて重い。しかし、敢えてその路線を選んだのである。できる限り楽に話せる方向へ進んではならないという信念なかりせば、ありえそうにない言語習慣と見て間違いなかろう。 古代日本語動詞一覧を見る限り、その方向は180度異なると言ってよいだろう。数が少ないだけでなく、その活用パターンは極めて規則的であり、例外は極く僅かで、覚えようとすればたちどころに可能。 そもそも、倭語〜日本語の文法は概念からして異なっている。(日本語を学ぶとは、西洋文法を基底にした日本文法を身に着けることになっているが、このため、これが一番の曲者になっていそう。) 漢字が並んでいるに過ぎない「古事記」を読むとそれに気付かされる。 屈折語では、文法的語彙はあるものの、語彙と文法(論理)は独立して考えることになる。それはある意味当然だろう。 ところが、膠着語の特性とも言えるが、倭語〜日本語文法ではその考え方は誤解を誘発してしまう。文法機能が凝縮されている専用語彙を用いるからだ。文法を身に着けるとは、屈折語では文構造の規則を100%覚えることを意味するが、文法語彙を覚えさえすればよいという、極めて単純なもの。 そういう点では、語形とか活用とは全く持って無縁な、孤立語たる漢語は簡略そのもの。しかし、それなら文法用の特別な文字を設定すればよさそうに思うが、その様な機能文字は表記に於ける句や文の仕切りを示す文字であって、本来の言葉と言いかねるようなものが目立つに過ぎない。これでは、簡単どころか、自分の頭で理解するためには多大な労力を使わざるを得ない。それが可能な鍛えられた知識階層用の言語なのは自明であり、それ以外は模倣から抜け出ることは難しく、言語上では知的奴隷状態に堕とし込められることになろう。 雑種言語の道を選んだ倭人は、その当初の気分を大事にして来たようである。それがまさに現代まで連綿と続く"1拍音"原則。(もっとも、子音発音ができる人は未だに少数ではあるものの、それなりの割合を占めるようになったらしい。) 膠着語とは、語幹-活用語尾の動詞が中核となって文章ができあがる仕組みだが、要は、その動詞に、これでもかという程、次々と語彙を付着させることが可能なタイプを意味している。これをスムースに行うには、語尾子音と語頭子音では、いかにも発音しにくい。従って、繋げる対象語彙が母音で終わっている方が気楽なコミュニケーションを実現できると感じてもおかしくなかろう。 語尾母音を名詞にまで拡張する必要はなさそうだが、付着させる語彙、つまり助詞があるから、同じ様になったのと違うか。このことは、意味が通じそうなら、助詞なしでも、裸の名詞を用いることも可能と示唆していそう。 そもそも「古事記」からすれば、8母音で、その後5母音になったことに象徴される様に、音韻でも、簡素化を旨とする姿勢と言えよう。(話者が多い言語で比較すると、子音の数もかなり少ない。)南島語を鑑みれば、原初は3母音あるいは4母音だった可能性が高く、渡来人対応で一時的に増えることは多かったろうが、要は動詞の同定がし易ければすべて良しの言語なので、落ち着く処に落ち着いただけ。 そうそう、他動詞・自動詞の区別も基本的には不要であることが「古事記」からわかる。面倒な文法的解釈など不要であり、基本、同じ漢字で少々の変態読み方で通じるのだ。たいしたもの。相対話語の雰囲気が生きていることになろう。 そんなことを感じることができるようになると、漢語的表現の導入の仕方も生まれてくる。漢語は名詞言語だから、その名詞を動詞にすればよいことに、そのうち気付いて当然。(e.g. 〜を (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |