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■■■ 「古事記」解釈 [2023.9.25] ■■■
[816] 太安万侶:「漢倭辞典」偲舒拒経
ここに至って、ようやく、思想的に齟齬をきたしている、序文漢文と本文倭文を、一気通貫で記載している点に納得がいくようになって来た。
要するに、太安万侶の執筆姿勢は偲舒拒経シショゴキョウ

つまり、アンチ「四書[論語 大学 中庸 孟子]-五経[易経 詩経 書経 礼記 春秋]」の書との大前提を欠くと、「古事記」は読み違えかねないというのが小生の"現時点"での見立て。間違えてはこまるが、この漢籍知識は必須であり、そもそも、太安万侶はその様な無知の読者は最初から想定していない。
逆に言えば、国史はプロ「四書-五経」の立場で読まないと誤読しかねないことになる。さらに忘れてならないのは、日本国は、半島の様な宗族宗教国家化を避けざるを得なかった点。従って、それを踏まえた丁寧な解説が無いと理解は難しいかも。

どうしてそうなるかと言えば、太安万侶の挑戦とは、あくまでも、口誦叙事を後世に伝えるための文字化だから。そのパトスの裏には、話語が文字化されてしまうと、倭人の口誦言葉に対する美意識が180度変えられてしまうことへの気付きがあろう。(例えば、SongにSVОC構文や仮主語を持ち込みたいと思う人は稀な訳で。しかし、現代の話語にはすでに高度な文法が持ち込まれており、Songは聴くと想定話語が頭に浮かぶ仕掛け。そこで初めて感動を呼ぶことになる。)
英語で云えば、シラブルが続く単語を上手に用いないと美しい表現ができなくなった様なもの。古い由来の単語は短くて粗雑な印象しか与えなくなり、美的表現には不向きとなる。
科挙必修の漢詩も同じことが言える。韻文なので文章の規則とは異なるが、参考にすべき膨大な文章語の裏付けがあって成り立つ作品。しかも、韻の膨大な辞書無しには美しい作品が生まれない仕組み。それは科挙の関門を潜り抜けて来た人々が愛する、洗練の美しさであり、古代の荒削りの美意識払拭路線を邁進していると云えよう。(この儒教型方針が貫徹されたため、漢籍からは、神話や古代叙事表現の断片しか辿れないようになってしまった。[社会不安定化リスク極小化策])

これに対して、「古事記」表記の倭語とは、正真正銘の話語。
従って、「古事記」は歌的美意識に貫かれて記載されていることになる。その点で、性情的には叙事ではあるものの、印欧語の叙事詩とは異なる点に注意してかかる必要があろう。・・・

ギリシア叙事詩とは、文字表記語化されて定着した、各方言(諸王国毎の語)の謡。(文字文芸:ギリシア悲劇口誦の生を視聴したことがあるが、あくまでも文字記録されたテキスト語。視読可能な文字音であり、極めて複雑。だからこそ、印欧語話者には心に沁みるのであって、文字化以前の美意識とは断絶がある。)
仏典にしても、釈尊の意向に反して、ベーダ叙事詩同様に文字化されてしまったもの。人々を感動させた筈の、現地話語での美しい生の肉声でなく、思想を垣間見せるストーリーテラー的中味になっている訳で。

倭語を雑種言語としているが、ここらの発想を欠くとその意味がわからなくなる。

英語教育を受ければすぐにわかることだが、英語も雑種言語と呼ぶことは可能だからだ。
…ブリタンニア族の言葉が基底だろうとの見方があり、これに、詩的表現不向と言われる短音語彙のディアスポラ語[@5世紀:ブリテン島東南部河口域]が加わった辺りが文字記録からわかる最初の混淆。ゲルマン語北部系西部系の境界(ユトランド半島)3方言とルーン文字が持ち込まれ、海人系なので、それに加えて、海峡対岸のフランク族の言語も大いに入った筈。さらに、その後、ノルマン・コンクエスト[北ゲルマン系ノルド語]やローマ帝国侵攻[教会言語:ラテン語]で組織的に言語が大幅に改変された。これらすべての痕跡が現代語の語彙に残っている。  【】半島北:ジュート族→南側の海峡先端部のみ, 南:アングロ族→北側, 基部:サクソン族→海峡先端除く南側
しかし、それは、印欧系で、表音文字表記を前提した言語が次々と被さっている歴史でしかない。部族王制定の語彙の正書法がまがりなりにも成立している名詞語群に於ける、言語間の融合・分離現象であるのは明らか。
これと、動詞言語、しかも母音1拍語という異なるシステムでの、文字化"前"話語に於ける雑種化は全く異なるプロセスと見るべきだろう。
(文字化"後"雑種化の典型例。e.g.昼飯ひる(の)めし昼食チュウショクランチlunch)

名詞語たる印欧語では、文字化されていれば名詞中心に接触言語との混濁化が発生しない訳はない。
しかし、印欧語の心髄たる名詞-動詞の対応変化があるので早急な雑種化には限界がある。英語の様にそのバリアを低くはできるものの、社会的には、常に組織強制的なモノリンガル化かマルチリンガル化のどちらかの路線選択を迫られることになろう。
ところが、倭語の様な動詞語であると、バイリンガルのディアスポラの母語は黙っていても次々と取り込まれがち。
その母語能力を倭人から期待されているからでもあり、倭語名詞は変化しないので、即、ママで倭語に使われたりするからだ。しかも、同様に動詞への適用も、活用が規則的なだけに、バリアは低い。頻繁な接触を続けていれば倭語会話が便利に感じるのは当然で、本貫地の言語が揺れ動かされていれば、戻る意思も喪失してしまうから、母語に対する思い入れが薄くなるのは自然な流れではなかろうか。(但し、経典記載語としての認識が薄い場合に限られよう。)

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