→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2023.9.26] ■■■ [817] 太安万侶:「漢倭辞典」s-V & V-o ここ迄の主張の核は、倭語〜日本語に於いては、「主語-述語」という構造表記ではなく、動詞型主述部を核として、名詞句がこれに絡む仕組みになっているとの、見たママの提起。 このためには、SОV構文と見るべきでないと主張するしかない。しかし、他動詞だとほとんどОVだし、常識的にSが省略されているだけと考えがち。それを間違いと考えるのか、と言うことになろう。 ・・・この回答が実は難しい。 省略を意識するようになるのは、文字化された文章に馴染んでいるから。わかりにくいものの、話語たる倭語なりのSОV的構文は存在しているからだ。しかし、それを構文と見るなというのがミソ。 省略されたのではなく、もともと通じるなら言わないのが原則。文字表記化されると加えない訳にはいかなくなるということ。 その辺りは助詞で考えればすぐにわかる筈。 文章語「私はコーヒーを飲みたい。」は主語を言いたい場合を除けば話語では滅多に使うことはない。気軽な関係なら助詞も使わないで、一言「コーヒー飲みたい。」で済む。普通、後者は省略形とするが、小生の見立ては逆で、文字表記化されて助詞<を>を入れざるを得なくなったと見る。目的語の格助詞は付けないのが倭語のルールと見るからだ。 何故にそうなるかと言えば、ОV構文だから。目的語が重要なら、名詞と動詞は格助詞無しに直結すべしというに過ぎない。 それほどの必要はないが、触れておきたい場合は、格助詞を付けた一般名詞句となる。 これはSV構文にも当て嵌まる。主語不可欠なら格助詞無しで直結すべし。そこまでしたくないなら、主語名詞はカットでもよいし、格助詞を付けた名詞句としてもかまわない。 実にシンプルな文法。誤解を与えかねないから、SОV構文言語として分類しない方が良いと思う。 こんな語法に気付かされるのは、本邦最初の倭歌。・・・ 八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を 歌である以上、文脈を踏まえて、「私はこう読みたい。」で結構な訳だが、議論すべきことがある。 「こう読んだなら」、他動詞<作る>の目的語はどの"八重垣"なのか?・・・ 助詞<を>は文章に1つしか使わない筈だから、<作る その八重垣"を">とすれば、動詞は文末でなく、目的語を転倒していることになる。すると残りは掛け声になる。 しかし、素直に考えれば、中核の文章は、<妻籠みに 八重垣(を) 作る。>では。ここでの格助詞は拍数のために省略されているのではなく、動詞直結の正調表現がされているに過ぎないと見る訳だが。 その後に続く句の<を>は動詞<作る>の目的語を示す格助詞ではなく、句末詞(感動)と考えることになる。 (<を>は、おそらくは、もともと文末に使う詞。プレ歌で"綾に吉 この見方があり得るとしたら、「古事記」読者もこの箇所で<VО>漢字記載の意味に気付く筈である。漢語の<SVО>など倭語にある訳もなく、この表記の意味するところは2つしかなかろう。漢語を習得している読者対象である以上、ここらは説明不要だろう。 ① 滅多に使わないが、 強調として使う転倒表現。(格助詞必須) ② 格助詞無しの直結型<ОV>表現。 例えば、以下の<VО>箇所は、目的語に格助詞<を>を付けずにこう読む。 従って、小生は、これを変体漢文と見なすべきではないと思う。 これにかかわらず、「古事記」は助詞を欠いたり、挿入したりと、決まりを定めていない様に映る。助詞だらけは煩雑に映ることもあるとはいえ、ルール無しは執筆上ではかえって手間だから、読者にとって自明である読み方があったと考えるべきと思う。 【コメント】名詞-動詞直結型は特異と考えるべきでない。その極致は、モホーク語@ニューヨーク州西北部〜隣接カナダで、主述部は長い1語。SとОの語幹が動詞語幹-接尾語と一体化されているとのこと。…e.g. vsenataraʼ=You will make a visit. (C) 2023 RandDManagement.com →HOME |