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■■■ 「古事記」解釈 [2024.2.27] ■■■
🔰[831]読み方[4]

「古事記」に初めて接して驚かされるのは、最終部分の㉖代から、<天皇名+宮名+御子一覧(系譜)+崩御年+御陵名>が列挙されるだけという点。さっぱり面白くないので不満を感じてしまい目を通す気にならない箇所である。
一番新しい時代で、比較すれば情報欠落が少ない上に、話題にも事欠かない"筈"と思ってしまうから猶更。

しかし、考えて見れば、中央集権化がドラマティックに進んでいく社会環境下。保守革新入り乱れ、軋轢は凄まじいものがあり、どうとらえるかは難しいものがあるのは確か。
ただ、事績記載ゼロではなく、例外1件として、<竺紫君石井>がある。
いかにも、政治的背景として≪百済〜筑紫〜難波津≫、≪新羅〜丹後〜琵琶湖≫&≪初瀬街道〜伊勢〜尾張≫間での摩擦を感じさせる編纂。

・・・そもそも、近江から迎えた㉖袁本杼命はどう見ても皇位継承の場に入って来るような血筋ではなかろう。一般的に容認できるのはせいぜい2親等だが5世孫なのだから。しかも、独特な支援勢力を抱えていたようだし。📖阿蘇ピンク石への拘り

よく知られるように、国史には、本文と異なり、わざわざ"日本天皇及太子皇子 倶崩薨@「百済本記」"との記載がある。崩御も43歳と短命だし。思わず、御子㉗㉘㉙間での皇位継承騒動を疑ってしまうような状況。要するに、皇后手白髮命が近江王朝化を許さず、自らの血族たる㉙御子を即位させたことになる。
その名称"天國押波流岐廣庭天皇"たるや復古調そのものだし。

要するに、皇統は皇后手白髮命−㉙天國押波流岐廣庭天皇−㉚沼名倉太玉敷命[14年]−㉞"坐岡本宮治天下之天皇"{忍坂日子人太子(麻呂古王)=糠代比賣命}であることを示したことになる。

国史としては、不信仏法の敏達天皇から、信仏法の用明天皇へと続き、摂政聖徳太子(上宮之厩戸豊聡耳命)が活躍し、物部や曽我の争乱が発生する時代という記述になる訳だが、「古事記」はそれらについては何も触れず、皇統譜のみを貫き通す。
しかし、だからといって、国史が系譜を明確化しているかといえばはそれはなはだ疑問。ほとんどの記録文章が焼却されたこともあるが、系図巻が残存していないことを勘案すれば、政治抗争勃発の可能性を秘めているので、天皇即位認定以外の系譜確定を避けたようだ。「古事記」は実直にそこにメスを入れたことになろう。

尚、仏教は、輪廻観がベースの上に因果律のドグマがあるので、皇統譜の流れを染め上げるための逸話には向かない。


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