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■■■ 「古事記」解釈 [2024.3.1] ■■■
🔰[834]読み方[7]

「古事記」で扱いが厄介なのが序文冒頭。

本文とは全く異なるスタンスで書いてある漢詩的ガイストに戸惑わさせられるからだ。常識では考えにくい執筆を敢えて行う意図がどこにあるのかはかりかねるので、下手をするとここで頭脳停止してしまう。
これを避ける必要があろう。

この書は、国史とは違う。
歴史書なら、各天皇代でどの様な出来事が発生し朝廷がどう対処しその影響がどんなものか推し計ることができそうな情報を記載することに努めるもの。編纂時の価値観でそうした情報の扱い方が決まるに過ぎない。
ところが、「古事記」の観点はあくまでも正統の神統譜・皇統譜を提供すること。時間軸を示すという意味で重要なのは、皇位継承の仕方。それ以外は、その役割は補足に近い。
国史とは似て非なる書。
しかも、美しい倭語で神統譜・皇統譜を口誦してきた伝統を、文字化して残そうとの途方もない試み。

従って、この目的からすれば、序文に、わざわざ漢文で粗筋を記載することに、何の意味もなかろう。
にもかかわらず、漢文で提示する必要性を感じたとしたら、目的は1つしかありえまい。

公文化必至の<漢語>と相対口頭コミュニケーション用<倭語>の差異を明々白々たる形で見せつける必要があるということ。

そのためには、ハイレベルの美しい漢文を示す必要があり、しかもその詩文的文章の裏に、儒教型中華帝国の理念を組み込んでおく必要があろう。・・・能力に裏打ちされた自信だけで、そんな無理と思えることに挑戦などしないものだが、太安万侶はすべてをココに賭けたことになろう。
そうだとすれば、本文と序文のガイストは全く違っていて当然である。だからこそ価値がある訳で。

当時の読者層なら、誰もが読んだ途端にそれに気付く筈で、極めてリスクが高い所業だが、漢文国史の編纂作業にほとほと嫌気がさしていたということもありそうだ。

こんな風に考えると、序文冒頭漢文を正統的に読み下ししたところで、その面白さはほとんど伝わらないことになろう。

訳文は、そこらを勘案した工夫した文体にした上で、倭とは大きく異なる、中華帝国の思想ができるだけ見えるような配慮が必要だと思う。しかし、簡単に書けるものではない。 📖漢語風和訳:序文 ㊀混元〜飛鳥


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