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■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.2] ■■■
🔰[847]読み方[20]

武家時代の書「水鏡」になると仮名がついているので、初等古文読みの知識でなんとなく読めるが、「古事記」の漢字表記倭文の読み方は極めて難しい。

これを、どうにもならないと見なすのが普通だろう。一応は漢文の態をなしているものの、漢文法に従っている文字配列とはとうてい思えない箇所だらけだし、助詞文字表記もあったりなかったりだから、なにがなにやらとなるのは致しかたない。そう考えてしまえば、「古事記」の文章はそもそもまともな文になっていないとみなすことになろう。
  ○文法(文章構造表記ルール)欠落。
  ○助詞表示無方針。
しかし、そんなことがあり得るものだろうか。読む人によって、解釈が異なることになって一向に構わぬとの姿勢で文字表記化を進めたことになるからだ。序文からは、倭文表記方法に、いかにも自信ありげな様子が伺えるし。
従って、当時の読者にとっては、読めばたちどころに自明となる、なんらかのルールがある筈、と考えるのが普通ではなかろうか。

残念ながら、思い付かないから、そんな主張をする人はいない訳だが。

と言うことで、太安万侶同時代の超有名な歌で、一寸考えてみようか。・・・
 東 ひむがし_
  _かぎろひ_
       た-つ所見み-え
 かへ-り見為みす-れ
     つき 西渡かたぶ-き_
     (軽皇子宿于安騎野時柿本朝臣人麻呂作歌)短歌[「萬葉集」巻一#48]
歌だと、「古事記」は拍を間違わないように万葉仮名的な音表記するが、それではニュアンスが伝わらないから上記の様になる訳だ。音ではないから、読みが当たっているとは限らない。

「古事記」なら、この手の表記だと地文に該当することになる。
その見方で読めば、こうなるのではあるまいか。・・・
 東 ひむかし_
 __ かきろひ
 た-ち_(が) 所見みら-れ (て)
 かへ-り 見為みす-れ 
 つき_(は) 西にし_(に) わた-る

かなり、一意的に読めるようにも思えてくる。

---参考:「水鏡」---
 【序】
・・・
大方はさることにて、この日本國にとりても、又、中々世あがりては事定まらず、却りてこの頃に相似たる事も侍りき。
佛法渡り、因果辨へなどしてより、やうやう静まり罷りし名残の、又、末になりて、佛法も失せ、世の有様も悪くなり罷るにこそあるべき理なれば、良し悪しを定むべからず。
偏にあらぬ世になるにやなど欺き思ふべからず。
萬壽の頃ほひ、世繼と申しし賢しき翁侍りき。

文コ天皇より後つ方の事は暗からず申しおきたる由承る。その先は、いと耳聞遠ければとて申さざりけれども、世の中を究め知らぬは、片趣に今の世を謗る心の出で来るも、かつは罪にも侍らむ。
目の前の事を昔に似ずとは、世を知らぬ人の申す事なるべし。

かの嘉祥三年より先の事をおろおろ申すべし。

先づ神の代七代、その後、伊勢大神宮の御世より、顱草葺不合尊まで五代、合せて十二代の事は、詞に顯し申さむにつけて、憚多く侍るべし。
神武天皇より申し侍るべきなり。
その帝、位に即き給ひし、辛酉の年より嘉祥三年庚午の年まで、千五百二十二年にやなりぬらむ。その程、帝五十四代ぞ坐しましけむ。まづ神武天皇より。」
  とて言ひ續け侍りし。


 【第一代】神武天皇
〈七十六年三月甲辰日崩。年百廿七。九月丙寅日葬大和國畝火山東北陵。〉
神武天皇と申しし帝は
 顱草葺不合尊の第四御子なり。
 御母は海神の娘 玉依姬なり。又まことの御母は海に入り給ひて、玉依?は養ひ奉り給へりけるとも申しき。その世に侍りしかども、細かに知り侍らざりき。
この帝、
 父の帝の御世、庚午の年に 生れ給ふ。
 甲申の年に 東宮に立ち給ふ。御年十五。
 辛酉の年正月一日に 位に即き給ふ。御年五十二。
 さて、世をたもち給ふ事、七十六年。
神代より傳はりて、劔 三つあり。
 一つは石上布留の社にます。一つは熱田の社にます。一つは內裏にます。
又 鏡 三つあり。
 一つは大神宮におはします。一つは日前におはします。一つは內裏におはします。內侍所にこそおはしますめれ。
この日本を、秋津嶋とつけられし事はこの御時なり。事遙にして細かに申し難し。
位に即かせおはしましし年ぞ、釋迦佛涅槃に入り給ひて後、二百九十年に当たり侍りし。
 されば世あがりたりと思へども、佛の在世にだにもあたらざりければ、やうやう世の末にてこそは侍りけれ。



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