→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.22] ■■■ [866]読み方[36] 天武天皇即位前であり、大友皇子が即位していたとすると、皇位簒奪行為となるが、その辺りの見方がどうなっているのか気になるところだ。 「水鏡」は、大友天皇代の存在を認めていないが(一般には、≪天智⇒弘文(大友皇子)⇒天武≫とされている。)、即位儀式は行われたとの見解。・・・ 第四十_天智天皇〈治十年崩。葬山城國山科北陵。〉 第四十一天武天皇〈治十五年崩。年。葬大和國檜隈大内陵。〉 [天武天皇][天智]七年二月に東宮に立ち給ふ。 ([天智]十年と申しゝ正月五日、 帝の御子に大友皇子と申しゝを 太政大臣になし奉り給ひき。 二十五にぞなり給ひし。) (東宮を呼び奉りて、 「わが病重くなりたり。今は位ゆづり奉りてむ。」 との給はせしかば、 東宮「あるべき事にも侍らず。 身に病多く侍り。 后宮に位を讓り奉りたまひて 大友の太政大臣を攝政とし給ふべきなり。 われ御門の御爲に佛道を行はむ。」 と申し給ひて、 やがて頭をそりて吉野山に入り給ひにき。) 天智天皇十二月三日うせさせ給ひにしかば、 同五日大友皇子位をつぎ給ひて 明くる年の五月になほこの御門を疑ひ奉りて、 出家して吉野の宮に入り籠らせ給へりし・・・ 「水鏡」の見方は、≪天智⇒天武⇒大友≫とすべきであって、大友皇子の所業は間違っているというもの。編年体表記の意味はそこらにもあろう。立太子こそが皇位継承の基本で、年齢的に不足の場合は、代替役即位になるものの、東宮位は持続ということのようだ。 一方、「古事記」は東宮即位を、原則、記載しないが、3太子例をあげたりと、この仕組みが機能するどころか、継承騒動の火種と見ているように思える。・・・ 神武天皇:父帝東宮 綏靖天皇:神武四十二年東宮 安寧天皇:綏靖廿五年東宮 懿コ天皇:安寧十一年東宮 孝昭天皇:懿コ廿二年東宮 孝安天皇:孝昭六十八年東宮 孝靈天皇:孝安七十六年東宮 孝元天皇:孝靈三十六年東宮 開化天皇:孝元二十年東宮 崇神天皇:n.a. 垂仁天皇:崇神四十八年東宮 景行天皇:垂仁三十年東宮 成務天皇:景行五十一年東宮 仲哀天皇:成務三十八年東宮 (神功皇后) 應神天皇:神功三年東宮 仁コ天皇:(御弟東宮) 履中天皇:仁コ三十一年東宮 反正天皇:履中二年東宮 允恭天皇:n.a. 安康天皇:(御兄東宮) 雄略天皇:n.a. C寧天皇:雄略廿二年東宮 (飯豐天皇) 顯宗天皇+御兄東宮:- 仁賢天皇:C寧三年春宮 武烈天皇:仁賢七年東宮 繼體天皇:- 安閑天皇:(繼體天皇御子) 宣化天皇:(繼體天皇御子) 欽明天皇:(繼體天皇御子) 敏達天皇:欽明十五年東宮 用明天皇:(欽明天皇御子) 崇峻天皇:(欽明天皇御子) 推古天皇:(欽明天皇御子) (C) 2024 RandDManagement.com →HOME |