→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2024.4.30] ■■■ [874]読み方[44] この手の部分が、「古事記」序文にもある。 従って、読むにあたっては、先ずは、ここから。通常の本とは違っていて、ここを跳ばすのはご法度と考えた方がよい。序文を読んでいないと、何が何やらの漢文からなる本文など読む気になる道理がないからだ。 そして、素直に太安万侶の言葉を受け入れること。と云っても、これは簡単ではなく、大抵は支離滅裂な見方になってしまう。・・・自分がそうなっていることに気付くことができるかどうかが勝負の分かれ目。 そこで、上卷冒頭の原書(写本)を目で見ておくことをお勧めしたい。序文とは、上巻の初段であることがわかるからだ。要するに、「古事記」献上の際の、仕来たりとしての別添付書類ではないことを実感しておいた方がよいということ。・・・読者向け文章である。 次に、考えるべきは、次の部分。(果たして、自省できるか否かが試せる格好の文章。)・・・ その時に稗田の阿禮という奉仕の人がありました。 年は二十八でしたが、 人がらが賢く、 目で見たものは口で讀み傳え、 耳で聞いたものはよく記憶しました。 [武田祐吉訳@「青空文庫」] 今もって、正体不明の人物で、性別推定さえできない。しかし、御側仕え(舎人)で身分的には無位の卑であることだけは確実。 正五位の上勳五等の太の朝臣安萬侶が、褒め称える理由はどこにあるのか考えるべきだろう。文字を読む専門家は非殿上人(五位未満)でいくらでもいるし、その長か最優秀専門家を何故呼ばないのか。 おそらく、とてつもない記憶能力の持ち主だったろうが、語り部の人々にとっては、もともと頭抜けた記憶力は不可欠。能力差はあるものの、無文字社会では珍しい存在ではない。常識で考えて、それだけで"賢い"と称賛する官僚はいまい。 (太安万侶は間違いなく能才であるが、それは、現代の大学入試でトップというタイプとはいささか違う。知られている手法による分析の深さ・広さ・速さで格段の素晴らしさを発揮する能力ではなく、どんな物事でも概念的に的確な見方ができる能力が優れているということだからだ。もちろん、前者の観点でもある程度抜きんでていなければ、後者の能力が発揮できる訳がないが、前者が殊の外冴えていても、後者では全く無能という人々は少なくない。 その手のピカ一の人から見て、"聰明"と評価されていることに注意すべきだと思う。つまり、単純に、膨大な記憶容量を褒める言葉の筈が無い。それに、そもそも"文字読めます。"を賢さと云う訳がなかろう。漢文が読める賢い人のお蔭とわざわざ紹介する必要性があるとは思えないからだ。) 小生もそうだが、"度目誦口拂耳勒心"を≪目で見たものは口で讀み傳え、耳で聞いたものはよく記憶しました。≫との訳文があれば、まあ、そうだろうということで通り過ぎる。あくまでも「古事記」全体を読み通したいので、こんな細かなことに係わり合いになると、とてつもない数になりかねず、考えることを避けているだけ。しかし、正確に云えばこれは誤訳の見本そのもの。もちろん、偶々、この著者だからでくわしたということではない。この箇所の訳文はどのテキストだろうと似たり寄ったりであるに違いないからだ。 ・・・天皇が何故に稗田阿礼を選んで召したのか。太安万侶が何をもって絶賛しているのか。そして、一意的確定不可能としか思えない読み下し文しか作れそうにない文章を誇らしげに語れる理由はどこにあるのか。 要は、こうした普通に湧き騰がる疑問に答えることができるか否かである。できそうにないと思ったら、上記の様に訳し、お茶を濁すしかない。間違ってはこまるが、それはそれで正解。 面白くないので、違う解釈に挑戦したくなるが、冒頭に書いた如く、気付かないで支離滅裂な論理になってしまうことこと必定。 ・・・ここは心しておいた方がよい。 要するに、無文字社会の言語文化が皆目わかっていないのに、「古事記」を読み始めることになるので、致し方ないということ。 (C) 2024 RandDManagement.com →HOME |