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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.1] ■■■
[875]読み方[45]
小生が、始めて、まともに読んだ「古事記」テキストは、(文献分析言語学者としての)本居宣長の解読姿勢にほぼ忠実と言われている、絶版となっている文庫の再刊大版印書本。(もちろん現代の出版物と比較すれば超安価。)
南方熊樟の指摘で、初めて、気付かされたのだが(論文・書籍の多くは、リファレンスの目的と役割が、西洋の学問常識と異なっており、その手の書は避けるに越したことは無い、と。)、解釈方針が倫理・論理で一貫しているテキストは滅多に無いらしいので、この本を選択。

しかし、よくよく考えて見れば、こうした学問的常識が当たり前に通用すると考えるのは、ユートピア幻想に過ぎまい。・・・我々の棲む社会とは、好ましい方向に社会が発展しそうな利権を公認しているに過ぎないのであって、社会生活を営む以上、利権が絡まずに自由に生きていける人など滅多にいないのだから。
とは言え、ここらには十分注意した方がよい。単に様々な見解を寄せ集めただけなので、実は支離滅裂な方針が採用されていても、それに気付かない可能性はかなり高いからだ。
国史を参照し、「古事記」使用語彙の意味を解釈することが当たり前とされている以上、それでも一向に構わないという姿勢であるのはあきらかだし。

どうして、国史と語彙が違っているのかを縷々説明するならわかるが、それとは正反対の姿勢を堅持している限り、どの様にお化粧詞を付けていようが、断片的利用に好都合な国史副読本とみなしているのは明らか。(但し、「古事記」を含め、国史以外の歴史書は存在していないし、新たに史書を作れるほどの情報など皆無に近い以上、国史を日本国の歴史書の基本とするとの方針自体は極めて正当。従って、「古事記」の断片を国史補完用途に使うべしとの主張自体は筋が通っているので間違わないで欲しい。)

小生の立場は、「古事記」は、太安万侶のエスプリ満載の、勅命皇統譜であるとみなして読むべしというだけのこと。序文を読めば、そう考えざるを得ないというに過ぎない。・・・「古事記」が日本国最古の書なので、国史より古層の伝承が詰まっていると考えている訳ではないし、国史より潤色度が低いとの論理が成り立つとも考える訳にもいかない。(天武天皇が幼少の頃から聞いて来て覚えているストーリーを"とりあえず"正統な伝承と考えたというだけのこと。)
要するに、その手の書ではあるものの、そこから太安万侶が掘り起こした倭の「古」の文化が見えてくる可能性が高いので魅力的というだけの話。言葉で書けば、"最古層への扉を開く書"と評価することになるものの。

序文にあるように、互いに矛盾する様々な伝承があり、そのすべてが長い時間をかけてそれぞれのコミュニティ内で"潤色"され続けて来た"お話"。一番正統のストーリーがどれかなどわかったものではない。
それに加え、語り部が時々の聴衆に応じて臨機応変に口誦スタイルに手を入れて来たのだから、文体の新しさがその伝承の古さを否定するものでもない。ソース情報が無い状態で、どのスト―リーが元の形に一番近いかがわかる道理が無かろう。

「古事記」の魅力はそんな問題とは次元が異なる。概念的把握能力がありそうな太安万侶個人が倭文として編纂したと序文に書いてある点こそが絶大な価値と言ってよいだろう。

優秀な官僚のプロジェクトチームが、矛盾を最小限に抑え、なんとかして歴史書の体裁を整えた一大労作とは根本的に性情が異なる。これを踏まえることが、読むに際しての"絶対的"前提。・・・日本の歴史を覚えたいなら、国史に限る。これにかわるものは存在しない。中華帝国に倣って作成された以上、完成後は、類似書を消滅させた筈だし。(ただ、語り部が、任務を変えて家業を引き継いでいたから、日本国には、得体の知れぬ伝承が各氏族に残っていたのは間違いない。後世、その利用が図られたりしたものの、所詮は信頼度は低い。
但し、皇統譜とその継承状況を補強する口誦叙事を記載した「古事記」だけは、ソースが天武天皇であり、元明天皇の勅命での成立書なので保存されることになったに過ぎまい。もともと、国史完成の前に、皇統確定のインパクトを探る意味で、露払い的に皇族内で口誦叙事聴聞の場を設定した書とも言えるわけだが。)


ここらを理解した上で、「古事記」を読まなければ、得るところは少ないと思う。・・・繰り返して来た主張だが、一番大切と考えるので、書いておいた。


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