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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.11] ■■■
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「古事記」は、聡明と褒め称えられる稗田阿礼による口誦叙事をベースにしているので、特有の表現形式を留めている筈。
と云っても、伝承話である以上、不人気な部分や冗長な箇所が削ぎ落とされていると思われるし、話を盛り上げる為の、潤色や習合等が施されているのは間違いないだろう。当然ながら、様々なバージョンがあり、そこからの一択は簡単にできかねるのが普通。
思うに、稗田阿礼は、天武天皇からその聞き覚えを習得し、その口誦を磨きあげたのだろうが、その過程で、伝承各譚の真のコア部分に気付くと共に、美しい口誦とはどの様なものであるべきかを見出したということではなかろうか。

口誦叙事語は劇の台詞言葉に近いから、おそらく、その臨場感を浮き出たせる方法論の定式化に成功したのだろう。少なくとも、聴衆の興奮を誘える五七調の取り入れ方と、シーンの生々しさを示す表現手法(例えば、現在形での語り。)はほぼ完成の域に達したのだと思う。

ところが、残念ながら、語彙の発音(文字の読み方)がさっぱりわからないので、本当にそう言えるのかは定かではない。

確実と言えそうなのは、≪音節≫を全く感じさせないような、母音の≪拍≫表現がなされること位かも。(子音は、母音の装飾音ということになる。)
"読み下し"に至っては、本居宣長以来とてつもない労力がつぎ込まれ続けて来たにもかかわらず、未だに、確定には程遠い状況だし。

各語彙のアクセントひとつとっても、想像さえつかない。
現代の風習からすれば、神への言葉は、抑揚や強弱を徹底的に抑えている様に見えるが、「古事記」が果たしてその調子なのかはなんとも。漢語の音表現に沿った四声表記方法もごく一部とはいえ採用されているのだから。(調べていないものの、歌の箇所で用いられている一字仮名は所謂≪平声≫が多い様にも思えるものの。)

道は余りに遠い。


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