→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.19] ■■■
[893] 14
「古事記」は言うなれば空前絶後の書。・・・これを誇大評価と思うか否かで、読み方は変る。
(間違ってはこまるが、「古事記」=神典とみなす信仰の話をしている訳ではない。)

国史を参考にする立場だと、本書はone of themの古書でしかない。
但し、現時点で発見されたなかでは、日本国最古と言えそうと評価することになろう。価値は高いといっても、その点だけ。記述対象の範囲は狭くて貧弱だし、絶対年代記述が僅かしかなく、力量不足は免れまい、ということになる。
しかも、出雲神話や天之日矛譚が全体の流れにどう関わるのか皆目わからない状態で収載されていて、編纂方針がわからない。仏教や外交についても無視している理由が自明ではないのも、常識外れとの印象を与えている。
従って、文芸書とみなさない限り、質的に高いと見なせる根拠はない。

日本国史成立状況を考慮すれば、この見方は一面的であるものの、至極論理的。
ただ、「古事記」をわざわざ国史と同時並行的に編纂した理由については頬かむりしている訳だが、国史の類似書作成は反逆とみなす中華帝国の状況を踏まえれば、焚書化できない以上、国史の補完的な歴史書として利用する以外に手は無かろう。

こんなことを繰り返して書いて来た。

ともあれ、重要なのは、「古事記」は歴史書ではないとの認識。
さらに、類似の点が見受けられる、参考とした可能性がありそうな漢籍も、全く見当たらない点も忘れてはなるまい。(小生は、中華帝国の、分野別多巻構成にしている私撰 博物学的事典の影響を感じる。)
しかも、「続古事記」なるものに、誰も手をつけていない。
このことは、極めて閉鎖的で、自己完結的な書であることを意味していそう。
しかるに、その手の書が滅失することなく、大事に保管され続けていたのだから、驚き。このこと自体、日本国の風土が大陸とは大きく違うことを示唆していると云えそう。(私撰 博物学的事典も大陸では早くに消滅し、日本国にしか残存していない。この手の書は、内容の一部の特徴から、伝奇書とみなされているが、実態を反映していない。編纂者の意図を恣意的に歪めたいのであろう。)

・・・話は跳ぶが、太安万侶の冷徹な眼からすれば、倭国も日本国も天子独裁-官僚統制型政体とは程遠く、要するにゴチャなのである。
高天原も現代人には訳のわからぬ合議制的様相を示しているから、そこらに根っ子があることになろう。
その一大変革を目指し、葦原中国というできたばかりの辺境国の王が御子(巫)を出自の地である高天原の支配者として送り込んだ訳だが(どうしてこの様なことが可能なのかは不明。)、それでゴチャが解消された様には見えない。
これを踏まえれば、仏教国を目指しても、結局のところ、仏教自体がゴチャになるだけだろうと読んだに違いなかろう。

---附---
尚、日本国最古の勅撰国史「日本書紀」だが、傳本「日本書紀私記巻上并序」(弘仁私記序)]@9世紀には以下の様に記されている。但し、後続国史の「続日本紀」では書名は「日本紀」とされており、官僚による公的編纂書としては異例の表記。もちろん、同一文書として片付けておくのが無難だが、素人常識からすれば、「日本書紀」では正式には成立していなかった"帝王系図"を後世に確立することになって改訂正式版が制作されたと見るしかない。もちろん、これも正式に確立された訳ではなく、結局のところ、朝廷公式文書は系図無しの氏族分類書に留まることに。(系図は人知れず焚書化するしかなかろう。)
夫日本書紀者、・・・
 一品舍人親王【淨御原天武天皇第五皇子也】、
 從四位下勳五等太朝臣安麻呂【王子神八井耳命之後也】、
 等、奉敕所撰也。
先是、
 淨御原天武天皇【氣長帶日舒明天皇之皇子 近江天智天皇同母弟也】御宇之日、
 有舍人、姓稗田【天鈿女命之後也】、名阿禮。年廿八。
 為人謹恪、聞見聽慧【聽 一本作聰】。
天皇敕阿禮使習"帝王本記"及"先代舊事"。
【豐御食炊屋姫推古天皇廿八年 上宮太子聖 嶋大臣蘇我馬子共議 録天皇記及國記 臣 連 伴造 國造 百八十部 并 公民等本記 又 自天地開闢至豐御食炊屋姫天皇】謂之舊事。未令撰録、世運遷代。



 (C) 2024 RandDManagement.com  →HOME