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■■■ 「古事記」解釈 [2024.5.21] ■■■
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山 v.s. 海の民俗風習的差異に注目したところで、「古事記」読みにプラスに働くとは思えないが、太安万侶が概念的把握に長けていることが感じられるなら、それだけでも価値があろう。
箱庭的地勢の島嶼での生活は、大陸とは違って、海での生活と山での生活が乖離しているとは思えず、両書の混淆は必然でもあり、それをあえて分画するのは大陸文化がどう影響を与えているかが見え易くなるだけと言えないでもないから。

ただ、山 v.s. 海的に眺めていると、両者を貫く独特の観念が見えてくるので面白い。

国土と~だけでは、社会が成立する訳もなく、人民の存在が不可欠。ここらをどう扱うかは信仰の根源に触れる問題でもあり、そう簡単に結論を導くことはできそうにないものの、「古事記」はそこらについて明確に言い切っているからだ。・・・

人民とは、≪うつしき青人草≫のことで、神は、≪一木≫。(従って、数詞は"柱"。)

どちらも感覚的にはわかり易い。

草とは、土中から、自然体で、芽(目)を出し、葉(歯)を拡げ、花(鼻)を咲かせ、実々(耳)をつける。このサイクルを半永久的に続けることになる。草としての個を認識できなくもないものの、大局的に見れば集団繁茂。
現代思想では、この手の表現は比喩となるが、古代の人々からすれば、これこそが"実体"ということになろう。(大陸では、ヒトは動物類の"蟲"の一種で裸が特徴との見方。生命体発生の根源に目を注ぐ理屈重視の宗教では、創造~が土塊からヒトを作ったことになる。)

絶対~の場合、その死は語りようがないが、≪一木≫であれば、条件で色々。気の遠くなる時間生き続ける樹木もあれば、なんらかの理由で消え去ってしまう場合も。山火事や大洪水を乗り越えてきた御神木がある一方で、新陳代謝も発生する訳で。

この辺りの観念があったので、仏教の輪廻や無常というコンセプトを受け入れ易かった様にも思えてくる。


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