→INDEX

■■■ 「古事記」解釈 [2024.6.7] ■■■
[912] 33
葛城の話を書いたので、せっかくだから、結構多くの人が用いている葛城王朝という考え方に触れておきたい。
この用語、なんら特別な概念ではなさそう。天皇覇権確立と云っても、初期の実態は、大和盆地内の豪族連合だろうという程度の考え方のようだから。婚姻関係からすれば、そのうちの古い勢力としては葛城地区が最有力というだけ。

それはそれで、特段の問題性は感じさせない。おそらく、≪先王朝≫イメージを与えることで、葛城勢力がその後も長く影響力を維持できた理由を示しているのだろうし。(しかし、この王朝の力の源泉の説明を欠いているし、何故に、新興勢力に従ったのかも不明。従って、この用語にたいした意味は無い。)

素人がこれ以上考えても、古代話創作マニアは別だろうが、時間の無駄だろうとなるもの。ところが、小生の場合は、「今昔物語集」全巻に目を通していたからそうならなかった。(尚、「今昔物語集」は、全巻の内容を知らないで、一部譚のみ読むと、間違った解釈になること必定なので、ご注意のほど。)・・・
行者による葛城-吉野の橋掛け譚で、「古事記」の以下の、天皇が畏れ入る箇所の意味するところに気付かされることになる次第。(本邦の3佛聖は太子・役・行基という提起自体が優れているが、この箇所は特筆もの。)
   ㊦㉑大長谷若建命㊅葛城之一言主大~
   天皇登幸葛城之山上 爾 大猪出・・・
    又一時
   天皇登幸葛城之時 百官人等・・・
     「・・・吾先為名告
         吾者雖惡事 而 一言
           雖善事 而 一言々離之~
         葛城之一言主大~者也」・・・

一言主大~とは、大和盆地の西南に位置する葛城(金剛)山そのものと理解すると、流れがわかる。(山そのものなので、本来的に系譜は存在し得ないが朝廷の都合で作られる可能性はあろう。山上に渡来神が座す、東側の御諸山とは異なる。金剛山は信仰者に開放的だが、御諸山は住処であるから、特定の祭祀者以外には禁足となる。)
此処は、標高1,000m程度の低山なので、路さえあれば、登ること自体が困難という訳ではない。ただ、水源的な山脈を形成しており、灌木や蔓が繁茂しており藪は深い。このため、洞窟・磐坐・水源谷筋では呪術的山岳祭祀が盛んに行なわれて来た訳だ。従って、それを支える、山の部族民が三々五々棲み付いている地でもあると見てよいだろう。
勿論、葛城域自体は川筋扇状地に農耕適地があるから、豪族の本拠はそちら。唯、その信仰対象は同じ山であるから、山の民と半ば一体化していた筈。

この様な状態を措定し、「今昔物語集」を読むと、山の民とは、行者に労務を提供させられている鬼神の類ということになろう。もしも、反天皇的に振舞えば土蜘蛛とされてもおかしくない勢力。
その特徴は、一般の倭人とは大きく違っている。自然神なので、信仰が個人主義的で、一丸勢力になりずらいからだ。一見閉鎖的だが、信仰を阻害しない限りは来訪者を歓待するから開放的でもある。さらに、山崇拝者なら、その支援には吝かではない。従属的地位であるかないかはたいした問題ではなく、安定した信仰生活ができるなら、外部との交流は喜ばしいことになる。これが葛城勢力が抱える実態と違うか。

つまり、かなり特殊な勢力ということになる。山の民なので地の利を知り尽くしているし、信仰防衛つまり御山護持となれば武力発揮は桁違いに強力だし、半定住民だから山脈の何処にでもすぐに移動してしまう故に、そうそう簡単に武力制圧されてしまうことが無い。
しかも、かなり個人主義的な信仰に基づく勢力なので、組織的統治を目指す朝廷には目の上のたん瘤。一言主大~は葛城勢力の信仰対象ではあるものの、自然神で部族祖ではない以上、神の系譜に重きを置く必要もない。そうなると、葛城祖の皇統譜への結合も不必要と言わざるを得まい。

そもそも、そんなことを忖度して動く性情の民ではなかろうし、その一方で、この地で大成した呪術者は様々な勢力から御呼びがかかっておかしくないし、葛城山への呪術修行的参詣もあろうから、葛城勢力は一目おかれて当然では。
・・・と、見ることができるのかは、なんとも言い難し。

しかし、はっきりしているのは、「古事記」の一言主大~は天皇の存在を全く気にかけていない点。一方、「今昔物語集」では行者とは対立的で、朝廷に訴する様な状況だが、行者がそもそも反朝廷的であるということからの対処のように見える。要するに、どちらも、為政者の思惑など全く考慮しない宗教勢力ということになる。
両者が対立的といえば、その通りだが、もともとの自然信仰を純粋培養していた訳ではなく、山岳呪術という一点だけ遵守し、新しい信仰と混淆を続けてきたからこそ、その地位を確保してきた訳で、行者の修験に独立的自然神が飲み込まれただけとも言えよう。
「今昔物語集」的見方からすれば、倭の一番古い信仰を抱えているのが行者仏教の流れということになろう。


 (C) 2024 RandDManagement.com  →HOME