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■■■ 「古事記」解釈 [2024.6.13] ■■■
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天照大御神は、出自も、そのプロフィールも、中華帝国での一般的通念とはおよそかけ離れており、倭国の祖であると誇れる要素などほとんど見つからない。

そのことは、「古事記」が示す信仰は、大陸北方に由来する要素はほとんどないということでもある。

天武天皇は新羅国との国交を樹立しており、その前迄は百済との、角逐と同盟という揺れ動く交流を最優先していた訳で、ともあれ半島を通じて、中原基盤の中華帝国の先進文化導入を図って来た。極めて緊密な関係であるかの様に映るが、基層である信仰に関しては大陸北方とは全く相容れなかったことを、はっきりと記載しているようなもの。
・・・一般には、倭国風土の基層には、北方のアルタイ系と江南の2つの文化的流れが組み込まれていると解釈されているが、出雲系の流れが半島のツングースの流れを引き継いでいるとは考えにくい以上、「古事記」㊤の見立てでは、北方系の影響はほとんど無いということになろう。

少なくとも、大御神を始祖とするもともとの流れは、大陸の黄河系やツングース系とは無縁と言ってよいだろう。(日矛の新羅系や百済王族難民が混淆するのはずっと後。)

小生の個人的感興に過ぎないが、太安万侶が序文で感激的に筆を走らせるのもわかる気がする。倭国の文化的故郷がはっきりと描かれていたからである。

それはおそらく江南の地というか、低山が間近で耕地僅少な地域を流れて来る河川が注ぐ湖群が存在する揚子江中流域〜海水域のデルタ。太陽女神信仰の下、歌垣的神婚で成り立っているフラグメントな社会(百侗や百越と称される様な状況。)だが、言語や風習的には共通基盤が存在したことになろう。東方の果ての島嶼にある高き神木への尊崇観念を持っている民族ともいえよう。言うまでも無いが、葦の生命力(食用の新芽若葉/蘆筍)に対する尊崇もここら辺りがメッカでは。
根〜越の風土も、同類の可能性があるが、時代的には天孫降臨以前に形成されているので、様々な地域文化との混淆があって異なる点も多かろう。それに、基層としては、あくまでも地場の自然神信仰だろうし。但し、その辺りは、それほど重要ではなく、「古事記」が指摘しているのは、高天原勢力自体が、出雲への憧憬を抱えているという点。(だからこそ、派遣してもすぐに取り込まれてしまうのである。)
おそらく、高木信仰の原点を感じさせるからだろう。そもそも、出雲と称される地名自体が、早朝に雲海に包まれていた地へのノスタルジア的であるし。

・・・以上は、小生の、単なる想像だが、「古事記」上巻の叙述から見れば、観念が全く異なっている朝鮮半島や北方ツングースとの関係などあり得ないというだけのこと。現時点では、上述の骨子は、状況証拠さえ欠落しているが、そのうち考古学的に見えて来ると確信している。(未発見遺跡が数多く存在していておかしくないからだ。残念ながら、民俗学的調査で古代を想定できる時代は終わってしまった。)
・・・「古事記」とは、こんなことを想い起させてくれる書。


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