■■■ 「古事記」叙事的訓読  ■■■
倭文の肝
色々と見て行くうちに、小生なりの考えが纏まって来た。
序文で示されているように、「古事記」本文は、話語の倭文であり、その内容とはあくまでも叙事。どの部族でも行われて来たと思われる、祭祀に於ける神統譜とその事績の謳いあげを意味している。(現代においても、部族コミュニティでは、部族長名の譜は文字データではなく、叙事表現の中核。その上で要望に応じて、人気の事績が語られる。「古事記」編纂方針はその文化とほぼ重なる。)
遥か昔から伝わる書(サンスクリットで書かれたインド亜大陸の叙事詩やヘブライ語の聖書)とは、この文字表記化と考えてよかろう。(中華帝国の如く、こうした神話を抹消する場合もあるものの。)

712年成立の倭書と比較するのもどうかと思うが、倭語〜日本語は他の文字表記言語とは土台からして異なっている上に、見かけゴチャゴチャのなにがなにやらにもかかわらずが一大特徴。にもかかわらず、高度な文芸表現も可能という例外的様相を示しており、本来ならもっと真剣に研究がなされてしかるべき題材だろう。

ただ、問題は、日本語の標準規格化という現代社会として不可欠な課題と、その方向性が逆になってしまいかねない点。最古の書である以上、日本語の原点としたい訳だが、現代文法的な見方が通用しないとの結論を出されたりしたら、心理的に耐え難いものがあるのは当たり前だからだ。

その呪縛からフリーになるためには、先ずは、訓読を抜本的に改めるのが、手っ取り早いのでは。

理由は単純。
○倭語〜日本語の発音は1拍母音。
  ・音素(単独子音)の発音能力自体が欠落
  ・音節(1母音の前後に子音)概念は不適
○倭語〜日本語の文章は一直線構造。
  ・叙述部(動詞類)を名詞類句群が前置修飾
  ・主題/副題提起型で非"主語-述語"型
○段落方式(非"文節構造")
・・・当然ながら、話語を漢語化したい人を除けば、韻を踏むとか、語彙・音節の強弱表現に興味を覚える道理がない。

倭語の叙事は、1拍母音からなる5拍と7拍のリズム感の楽しさが持ち込まれていることになろう。それを十分感じ取れるように、ゆったりと謳うのが基本姿勢と言えよう。
「古事記」は、その様な叙事を聴き慣れている人達を対象読者としており、皆、漢文素養があるから、文章を眺めるだけでなんの苦もなく読めた筈。・・・そう考えて「古事記」本文を訓読するべきと思う。
(科挙的官僚思考と正反対な倭のインテリ層が、訳の分からぬ文法の漢文を読もうとする訳が無かろう。序文から見て、何の苦もなく読める手の書と思われ、それは聞き慣れた話満載だからでもあろう。換言すれば、口誦叙事の文章パターンに頭が慣らされている状況ということ。現代人でも同じことが言えるが、7-5調リズムを感じ取れば、自然に頭のなかに浸透していく。要するに、その様な文型であるとして読めば、難なく理解できる様に編纂されていることになろう。)

はたして、どこまでそんなことができるものかわからぬが、㊤❶高天原①造化三神から順に試してみたい。
もちろん、無謀な試行錯誤だから、せいぜい書いても國生みまで。
📖叙事的訓読 INDEX 📖古事記を読んで INDEX

 (C) 2023 RandDManagement.com  →HOME