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■■■ 「古事記」解釈 [2022.10.6] ■■■
[歌鑑賞4]青山に日が隠らば
【沼河日売】婚姻承諾
阿遠夜麻邇あをやまに 比賀迦久良婆ひがかくらば 奴婆多麻能ぬばたまの 用波伊傳那牟よはいでなむ 阿佐比能あさひの 恵美佐加延岐弖ゑみさかえきて 多久豆怒能たくつなの 斯路岐多陀牟岐しろきただむき 阿和由岐能あわゆきの 和加夜流牟泥遠わかやるむねを 曾陀多岐そだたき 多多岐麻那賀理たたきまながり 麻多麻傳またまで 多麻傳佐斯麻岐たまでさしまき 毛毛那賀爾ももながに 伊波那佐牟遠いはなさむを 阿夜爾あやに 那古斐支許志なこひきこし 夜知富許能やちほこの 迦微能美許登かみのみこと
許登能ことの 迦多理碁登母かたりことも 許遠婆こをば
㉓(5-6)-(5-6)-(4-7)-(5-7)-(5-7)-(4-7)-(4-7)-(5-6)-(3-6)-(5-6) 3-6-3

前文は無く、同様に、"許登能 迦多理碁登母 許遠婆"で一段落している前歌に直接つながっている。以下の後文がある。
    故 其夜者不合 而
    明日夜 爲御合 也

青山に  青き山に
日が隠らば  太陽が隠れてしまったら
射干玉の  "ぬばたま"の(様に真暗き)
夜は出でなむ  夜が表れてしまいます
朝日の  (命は) 朝日の(様に)
笑み栄え来て  晴れ晴れと微笑んで来てくれ
栲綱の  栲綱の(様に)
白き腕  (真っ)白な腕
沫雪の  泡雪の(様に)
若やる胸を  若々しく(ふんわりした)胸を
素手抱き  素手で抱いて
手抱きまながり  抱いている手で愛撫し
真玉手  本当に玉の様な手で
玉手差し枕き  (その)玉の様な手を(互いに)差し回して枕事をされたら
股長に  (手を枕にして) 腿を(ゆったりと)長く伸ばされて
寝は寝さむを  (ぐっすりと)御休みになされますものを
奇に  (そのようなことですから)不思議な程に
汝恋ひしきし  恋寂しくならなくとも(よろしゅうございます)
八千矛の  膨大な数の矛を支配されている
神の命  神である命
事の語り言も  (伝える)語り事も
此をば  この様な(次第)

驚くほど肉感的で、明日の睦事を誘いかける挑発的な歌に仕上がっている。儒学者など墨塗りしかねまい。

恋焦がれる男を手玉にとる、生々しい歌と言ってよさそう。

なかでも、"真玉手"が男にとって魅惑的であることを自覚しているところが素晴らしい、と思ってしまうが、女性の誘惑的常套手段として普通に使われている、両手が絡み合う状態の表現のようだ。
  [巻五#804]麻多麻提乃 多麻提佐斯迦閇(真玉手の 玉手さし交へ)
  [巻八#1520]真玉手乃 玉手指更(真玉手の 玉手さし交へ)

この歌でも、政治的な意味合いは消えてはいない。高志国の沼河日売としては、女王護持の婚姻反対勢力が殺戮されることは忍び難いものありと、鳥の国としての一体感を語ることを忘れている訳ではないことをはっきりと意思表明しているからだ。
しかし、それより恋が優るというのが、この歌の核心的メッセージ。

この歌こそが、日本文学の曙光を示していると言っても過言ではなかろう。
八尋殿@淤能碁呂嶋での"阿那邇夜志あやによし 袁登古袁をとこを"から、須賀宮での"妻籠みに 八重垣作る"に発展し、ついに高志國で文芸の域に達したことになる。

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