→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.10.15] ■■■ [歌鑑賞13]みつみつし久米の子等が垣下に ㊆(5-6)-(5-7)-(5-7)-7 又歌曰 みつみつし 気力充実している 久米の子等が 久米の一族が 垣下に植ゑし椒 垣根に植えた山椒の 口疼く (その実は)口中が麻痺するほど 我は忘れじ 我は(それを)忘れまいぞ 撃ちてし止まむ 討伐すれば (絶滅させるまで)止まらぬ 精神的自由という意味さえわからぬ社会のなかで、多分、久米歌のなかで、軍国少年・少女が愛好した歌はコレだと思う。 その場合、椒とは生姜のことと考えていた可能性が高い。植える感覚的にも、口疼くという味覚的にも、そして江戸期以来の用例としても、そう解釈するのは自然なこと。 情緒を共有することが嬉しい年代にはピッタリな内容と見ている訳だが、冷静に考えれば、可笑しな話だからでもある。 食べたいから自分でわざわざ植えておいて、それを口にしたら疼いて辛かったと解釈せざるを得ないからだ。それこそ自ら蒔いた種でえらい目にあったという話になりかねない。そのことを肝に銘ずるという手の話の訳がなかろう。 ここは草本の生姜ではなく、木本で雌雄異株である山椒と考える。毎年植えるのではなく、垣根として永年用いるためのもの。もしかすると、本邦の山椒(秦椒)ではなく、花椒(蜀椒)かもしれない。ともあれ、重要なのは味。生姜のような辛さではなく、痺れ感覚と見る。 それに、山椒は韮とは違い、食材としてはなんらの重要性も無い点を見逃すべきではない。脂・油に成れている大陸では滋味となるが、倭国の食事構成は全く異なっており、椒は存在していたが好まれていた訳ではない。[@魏志倭人伝] 要するに、時々は使用するが、嗜好品としてご愛用というレベルに達していない。そのような目立たぬモノをわざわざ歌に詠みこむなら、それ相当の理由があってしかるべき ここまで書けば主旨はおわかりと思うが、山椒の実の効果はバラツクという点を題材にしているとしか思えない。たいしたことないと思って多めに使うとえらいことになるからだ。辛くない筈の獅子唐辛子で、例外中の例外に当たった経験がある人はすぐにわかる筈。栽培品種でそのようなことがあるのだから、それ以前は・・・。 つまり、敵を甘く見て、一噛みですぐに片付くと考えていたら、痺れるほど手痛い目にあった。これを教訓に、と言ったところ。 ともあれ、生姜にしても、華々しい戦勝記念歌のトーンとは程遠い歌である。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |