→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.10.26] ■■■ [歌鑑賞24]やつめさす出雲建が ㊄(5-7)-(5-7)-8 打殺 出雲建 爾 御歌曰 やつめさす 八雲立つ土地柄の 出雲建が 出雲国の建が 佩る太刀 腰に佩びた太刀は 黒葛多纏[巻]き 黒葛でぐるぐる巻いてあるだけで さ身無しに あはれ 刀身無しなので憐れだ "八雲立つ-出雲"が基本かと思いきや、ここでは、"弥つ芽さす-出づ藻"ということらしい。残念ながら、浅学故、どうして<藻>が登場するのか理解できないので、ここではその説は採らない。 このような基本的なことで頭から疑問が生じたので、この歌の解釈には用心することに。 そう思って、考えると、根本的な問題がありそうな気もしてくる。 友好関係を結ぶふりをして、騙して真刀を木刀と取り換え、一気に斬殺して馬鹿にするという歌と見てよいのだろうか。 常識的には極めて残忍で汚い手を使ったことになるが、どうも大衆的にはそこが人気のモトのようだ。従って、大衆迎合的解釈に傾く可能性もありそうだから要注意と言えよう。 朝廷からすると、目の上のたん瘤的存在だったから、どうあれ惨殺してしまえとの方針だったようである。そう考えるのは、いかにも中央に気を遣ったかのような地名改訂譚が残っているから。[「出雲國風土記」出雲郡健部郷] ・・・纏向檜代宮御宇天敕:「不忘朕御子 倭建命之御名」健部定給 爾時 神門臣古禰 健部定給 即 健部臣等 自古至今 猶居此處 故 云健部 そこからすると、出雲健を嘲笑する歌とするのは、道理ということになるが、歌の最後の句「あはれ」の解釈はそれでよいのか大いに気になるところ。古文でイの一番に、現代の意味とは全く違う言葉と習うからだ。 それに、見かけは凄いが木刀でしかない、という解釈には胡散臭さを感じるせいもある。 出雲健が佩びていた太刀は、見かけも素晴らしいが、真剣としてもその切れ味は抜群で、お蔭で一振りで惨殺できた、というのが普通の歓び発露感覚ではなかろうか。 上手く騙すために、素晴らしい装飾の木刀を渡したことを誇るとの解釈はどうもひっかかる。騙し方に手が込んでいたことを誇る歌を詠んだことになるからだ。これでは、せせこまし過ぎる。 ここは、出雲の名だたる靈剣を易々と手に入れ、それによって出雲健をなんなく成敗したという歓びの歌としたいところ。なんといっても、大国主命のレガリアとは矛ではなく生大刀であるし、八岐大蛇退治で得た大刀を天照大御神に献上した地でもあるのだから。 ただ、そうなると、"さみなしに"を、"さ身無し"ではないと見なすことになるが、代替案が思いつかぬ。まことに残念ながら、そのような見方はできかねる。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |