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■■■ 「古事記」解釈 [2022.11.1] ■■■
[歌鑑賞 番外]吾妻はや
【倭建命】三歎詔
阿豆麻波夜あづまはや 〃 〃
㊂5-5-5

    自其入幸 悉 言向荒夫琉蝦夷等 亦 平和山河荒~等 而
    還上幸時 到足柄之坂本
    於 食御粮處 其坂~化白鹿 而
    來立
    爾 卽以其咋遺之蒜片端 待打者中其目乃打殺也
    故 登立其坂 三歎詔云
     "〜"<音>
    故 號其國謂阿豆麻也
    卽 自其國越出甲斐坐酒折宮之時・・・<No.29 新治筑波を過ぎて・・・>

吾妻はや  ああ 吾が妻よ

5文字のみ。これでは、とうてい「歌」とは呼べない。
しかしながら、<No.29 高光る日の皇子八隅知し>を、≪倭建命≫+≪大雀命/⑯天皇≫+≪大長谷若健命/㉑天皇≫という視点で位置付けた以上、もう一つの対応歌をあげておく必要があろう。・・・
それに該当する場面は、"登立其坂"しかない。文章とは言い難い音表記の詔だから、一種の国見歌と見なすこともできようということで、取り上げておくことにした。

これは、東国を"あづま"と呼ぶことにしたという地名譚であるが、この直後、甲斐國酒折宮で、御火燒之老人が東國造を賜っており、すでに用語としては存在していた筈である。
[=宮処]から見た内外は畿内 v.s. 畿外と呼ばれ、外は鄙として文化的に峻別されているが、東だけは鄙とは呼ばれないことが多い。異なる文化圏として設定されていることになろう。その起源として倭建命が当てられている訳だ。
「萬葉集」では巻十四に、東歌という、特別扱いの収載歌集があるのも、この区分けを反映していると考えられる。しかしながら、これらの歌の言語表現が特殊な訳ではないどころか、リズムは精緻に揃っているし、方言的要素がさっぱり見当たらず、言語表現文化的には1周遅れのトップランナーに映る。
表面的にはそうなのだが、違いは小さなものではない。労働歌だらけだし、露骨とも思える性表現を厭わない恋愛歌が多すぎるからだ。儒教的には極めて好ましくない歌というか、抑圧したがる情感が直截的に見てとれる歌満載と言っても過言ではなかろう。
朝廷の臣からすれば、中華帝国の支配構造に倣って、蛮の地を徳をもって治めるという体面を是非とも作り上げたかっただろうが、当の蛮の文化の体現者が実質的天皇たる倭建命であり、なんとも言い難きパラドックスが生じてしまいどうにもならなかったのだろう。その辺りが、歌集にも表れているといったところ。

従って、「吾妻はや」とは、倭国の西国と東国の統治構造の大きな違いを象徴する1句と言えよう。

換言すれば、倭建命の西方征伐と東方征伐は似て非なる平定だったことになる。

西は地場の豪族が割拠しており、そのため倭国は所詮連合王国構造から脱し得なかったが、東は全く異なる。島嶼地勢のフラグメントな状況に合わせて生まれた、古代から続くバラバラの部族集合体文化を保っていて、国家的なまとまりを欠いていたと見てよいだろう。
西には、倭建命を胆力ではるかに凌駕する豪族頭領がおり、小碓命/倭男具那命にこの名前を授ける力さえ持っていたし、立派な靈剣を手渡してくれたりする気高き武人も居た。
東にはそのような広域支配者を欠いている。当然ながら、東でまとまりが生まれるということは、各コミュニティが順次、中央集権体制を認めていく以外になく、それを実現したのが倭建命ということになろう。

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