→INDEX ■■■ 「古事記」解釈 [2022.11.3] ■■■ [歌鑑賞31]倭は国のまほろば ㊅(4-7)-(5-[4-6])-8 自其幸行 而 到 能煩野之時 思國以 歌曰 倭は 大和は 国のまほろば 国のなかでも真正と言えよう たたなづく 何重にもなっている 青垣 生命感溢れる 山籠れる 山々に囲われていて 倭し麗し 大和は(まことに)麗しい 思國歌として「古事記」収録の代表作品として絶賛されている。故郷から離れた旅程のなかで、はからずも命を落とした倭建命の、死の直前に湧き騰がって来た、望郷の想いを籠めた最高の名歌との評価が定着している。愛唱歌とされてもおかしくなさそう。(理由は定かではないが、小生の場合、授業では習っていない。しかし、テキストには収録されている筈。) インターナショナル化すると、どうしても海外文化との比較になるので、唯一無二の日本国の英雄譚としたくなるのは無理はなかろうが、ここらは自省してかかるがよかろう。ただ、大家から始まって、皆で揃って褒める体質を問題視しているのではない。 考えればすぐに気付くと思うが、一般的には歴史書として読まれているにもかかわらず、突然にしてこの箇所だけ文学作品として読むに等しい対応に転換している。しかも最重要な歌とするのだから、ご都合主義と言わざるを得まい。・・・少なくとも、この歌が日本古代史上なんらかの意味を持っているとか、歴史の流れになんらかの影響を与えた事績に関係しているとはとうてい思えない。その観点で最重要と言える歌なら、久米歌や国見歌であるのは間違いなかろう。 ・・・言うまでもないが、英雄譚であると見なせば、辞世連続4首の最初でもあり、高い評価は自然についてくるだろう。この場合、<思國>とは何を意味しているのか、じっくり考える必要があろう。 つまらぬことに拘って、つらつら書いているのは、この部分に関しては是非とも国史を参照した方が良いと思うから。(「記紀」混淆解釈や、国史参考書扱いをすべきでなく、「日本書紀」と並べて読むと価値が無いと云うのが小生の立場だが、この歌の場合、国史の記述を見ないと、この歌の本当の狙いが読み取れないかも知れない。実は、小生、「国史」流石、と思ったのである。) さて、その日本国正史だが、この歌は景行天皇17年3月幸子湯縣丹裳小野への遊行で、野中の大石に陟った国見での御製とされている。日向の地名譚になっていて、思邦歌と位置付けられている。*・・・ 夜摩苔波 區珥能摩倍邏摩 多々儺豆久 阿烏伽枳 夜摩許莽例屢 夜摩苔之于屢破試 (ちなみに、小生がこの記載を知ったのは、倭建命からではなく、邪馬壹國の検討から。夜摩苔[ヤマタイ]とも読めることに初めて気付かされた。現在はヤマタイ国ではなく、ヤマイ国とも読むとの解説もあったように記憶する。) こちらの表記では、 それにしても国史の判断には恐れ入る。この歌は望郷といっても、現代感覚の故郷を"懐かしむ"のではなく、国見行為と看破しているからだ。 "吾妻はや"の解釈でも言えることだが、妻を思っての回顧の情の言葉以外の何物でもないものの、その行為自体はあくまでも国見。眺めて歌を詠むことで国土平定を実現する呪的行事ということ。 "倭は国のまほろば"も、そのような意味合いであり、紛れもなく故郷を思っている言葉ではあるものの、その歌を詠むことで大和国平定を実現する呪的行為がなされたことになろう。天皇に即位していないのに、その様な行為が可能である筈もなく、国史編纂に当たっては、景行天皇の日向行幸に於ける行事で歌われたとせざるを得まい。 一方、東国からすれば、この倭建命の歌の存在こそ、天皇の天皇たる由縁そのものということになるから、「常陸國風土記」で表記されているように、倭建命の称号としては天皇とするしかなかろう。「古事記」に示されている以上、朝廷としても、この記載を抹消させる訳にはいくまい。 ただ、この歌は早くから宮処の寿ぎ的景観美表現の手本となっていたようで、国見感覚からは早々と離れて行ったようだ。 やすみしし 我ご大君の 高知らす 吉野の宮は <たたなづく 青垣隠り> 川なみの 清き河内ぞ 春へは 花咲きををり 秋されば 霧立ちわたる その山の いやしくしくに この川の 絶ゆることなく ももしきの 大宮人は 常に通はむ[巻六#923:山部宿祢赤人作歌] <思國>にしても、現代感覚に近い故郷賛歌用語化していてもおかしくなさそう。 葦辺行く 鴨の羽交ひに 霜降りて 寒き夕は <大和し思ほゆ>[巻一#64:志貴皇子御作歌] *:十七年春三月戊戌朔己酉 幸子湯縣 遊于丹裳小野 時東望之謂左右曰: 「是國也直向於日出方」 故號其國曰日向也 是日 陟野中大石 憶京都而歌之曰: 「〜」(「古事記」とは順番が異なるが連続3首に対応している。) 是謂思邦歌也 **:"ら"は倭語では語頭に使われないので、場所を"景色"的に装飾するための接尾語と見なすことになる。従って、語尾の一音は間[ま]、庭/場[ば]と見なすしかなさそう。語頭は、ま=真=目であろうし、ほ=秀≒穂となろうが、ほぼ慣習表記。 (C) 2022 RandDManagement.com →HOME |