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■■■ 「古事記」解釈 [2022.11.10] ■■■
[歌鑑賞38]浜つ千鳥浜由は行かず
【倭建命后御子等】<大御葬儀歌>白鳥飛翔@磯伝い
波麻都知登理はまつちどり 波麻用波由迦受はまよはゆかず 伊蘇豆多布いそづたふ
㊂(6-7)-5

    又飛居其磯之時
    歌曰

歌末に4首の注記的記述。
    是四歌者 皆歌其御葬也
    故 至今其歌者 歌天皇之大御葬也

浜つ千鳥  濱の千鳥は
浜由は行かず  濱から行かずに
磯伝ふ  磯伝いする

<大御葬儀歌>の最後の1首だが、これも何が何やらの類である。
とても、それぞれが独立して意味がある歌とは思えず、4首が組となって、御陵周囲田圃⇒篠野⇒河口⇒磯という流れを示していると考えるしかあるまい。
しかも、どれをとっても、死者との繋がりを感じさせる表現は皆無だし、儀礼の歌であるような雰囲気も感じさせないし、悲しみが籠められていると判断できそうな語彙も欠く。
驚くべき歌と言わざるを得ない。

しかも、<大御葬儀歌>であると云うのだ。
倭建命は天皇ではなく、御陵造営もこの葬儀歌も、朝廷の式次第とは無関係なのに、国家を挙げて行う行事の正式歌謡の歌詞になっているのだから仰天である。
歌の解釈以前に、そんなことがどうして発生したのかを考え、その仮説に応じて歌の位置付けがなされて、初めて少しづつ意味が見えてくるという筋道で行くべきだと思うが、そんなことはできかねるということのようだ。

ともあれ、4首のうち最重要なのはこの最後である。

繰り返しになるが、白鳥は西方ではなく、明らかに反対方向と思われる濱に向かったのだから。
ところが、この歌では、往く先が濱ではなく磯とされるのだから、面食らう。しかも、濱の千鳥が磯に行くと言うのだから、謎々問答さながら。

ただ、魂たる白鳥をお見送りする行列が、篠野⇒河口⇒磯と進んだという状況を詠んだに過ぎないと考えることもできない訳ではない。葬儀行列の行儀は全くわからないものの、殯については出雲の例があり、鳥装の儀典官が執り行っていたと見るコトができるから、同じ様なことが挙行されてもおかしくはなかろう。
つまり、参列者は濱の千鳥の表象物としての飾りを装着していたことになる。その姿で磯に到着して散会か。

ここらは、想像の域から脱することはできないので、適当に書いている訳だが、殯と葬送は概念が異なるので、そこらがどうなっているか考えておく必要はありそうだ。
前者は出雲の例からすれば、専門性ある鳥が参加し遊ぶことになる。後者は"那豆美"の仕草が必要なので、かなり異なる式次第だ。ところが倭建命葬儀では両者が一気通貫型になっているように見えるから、実際には篠野⇒河口⇒磯という順で歌舞の儀式が行われたということかも。そうなると、<大御葬儀歌>はその担当の部民がおり、崩御のみならず、皇族には普通に歌われていたのかも知れない。仏教スタイル導入でその慣習はほとんど廃れたことになる。

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